観光地としての川越の散策ついでに、河越合戦(※)最大の激戦地だったと伝えられる東明寺にも足を伸ばしてみました。
※ 河越合戦:天文15年に後北条氏と関東管領・両上杉氏(山内上杉、扇谷上杉)との間で行われた合戦。新興勢力である後北条氏が勝利し、関東における最大勢力の地位を確立した。北条氏康が夜襲を敢行し、両上杉側の八万の大軍をわずか数千の兵で破ったことで知られる。「河越夜戦」とも。
※ ※ ※
東明寺山門 遠景
舗装道が、山門の前で逸れているのが面白いと思いました。かつてはこの舗装道は、山門への参道だったのでしょうね。岩槻・慈恩寺の参道を思い出しました。
【追記】
ちなみに山門の右をすり抜けて奥に続く道は上り坂の坂道。その先には、川越城(河越城)本丸御殿があります。(今日の道は宅地にぶつかるため、直進するだけで本丸御殿には続きませんが、かつては真っ直ぐ続いていたのではないでしょうか?)
東明寺山門
川越夜戦(河越合戦)跡の碑
川越夜戦(河越合戦)跡の碑(石碑)
東明寺本堂
新河岸川
河越城の外堀の役割を果たした川です。
【地形図追加】
地形図で、東明寺の位置を確認してみました。
河越城(川越城)の乗る武蔵野台地北端の凸部、その更に先端に築かれたのが東明寺。
歩いてみると、台地の先端ではあるのものの、河越城付近よりは低い位置にあり、まさに松山街道の下り坂沿いの地勢。しかも、この台地凸部を三方から囲んで流れる新河岸川の内側です。
この地形から連想(妄想)される東明寺口での激戦は、悲惨です。
山内上杉・扇谷上杉の両上杉勢は、河越城を包囲していたものの、北条氏康の夜襲を受けて大混乱になったと言います。その一部が松山城(この当時、扇谷上杉氏の居城)に退却しようと、松山街道を北上しようとしたのでしょう。
河越城から東明寺口に向けて、下り坂の松山街道を走った両上杉勢を待っていたのは、新河岸川。おそらく両上杉勢もこの川に小さな橋を渡していたことでしょうが、大軍が一気に渡ることはできなかったはず。あるいは大勢で渡ろうとしたために、小橋が川に落ちたことも想像されます。
この地が河越合戦最大の激戦地となったのは、この川を渡れず混乱する両上杉勢のところへ、夜襲の成功で勢いに乗った北条勢が襲い掛かったからではないでしょうか。余勢をかって坂道を下って攻め寄せる北条勢の前に、逃げるに逃げられぬ状態の両上杉勢は、体制を立て直す間もなく、次々討たれていったことでしょう。「屠る」という言葉が相応しいような惨劇が、そこでは繰り広げられたのではないでしょうか・・・。
太田資正は、この激戦の最中、どこにいて、何を思っていたのか?
そんなことを思いながら歩いた、東明寺でした。
※ 河越合戦:天文15年に後北条氏と関東管領・両上杉氏(山内上杉、扇谷上杉)との間で行われた合戦。新興勢力である後北条氏が勝利し、関東における最大勢力の地位を確立した。北条氏康が夜襲を敢行し、両上杉側の八万の大軍をわずか数千の兵で破ったことで知られる。「河越夜戦」とも。
※ ※ ※
東明寺山門 遠景
舗装道が、山門の前で逸れているのが面白いと思いました。かつてはこの舗装道は、山門への参道だったのでしょうね。岩槻・慈恩寺の参道を思い出しました。
【追記】
ちなみに山門の右をすり抜けて奥に続く道は上り坂の坂道。その先には、川越城(河越城)本丸御殿があります。(今日の道は宅地にぶつかるため、直進するだけで本丸御殿には続きませんが、かつては真っ直ぐ続いていたのではないでしょうか?)
東明寺山門
川越夜戦(河越合戦)跡の碑
川越夜戦(河越合戦)跡の碑(石碑)
東明寺本堂
新河岸川
河越城の外堀の役割を果たした川です。
【地形図追加】
地形図で、東明寺の位置を確認してみました。
河越城(川越城)の乗る武蔵野台地北端の凸部、その更に先端に築かれたのが東明寺。
歩いてみると、台地の先端ではあるのものの、河越城付近よりは低い位置にあり、まさに松山街道の下り坂沿いの地勢。しかも、この台地凸部を三方から囲んで流れる新河岸川の内側です。
この地形から連想(妄想)される東明寺口での激戦は、悲惨です。
山内上杉・扇谷上杉の両上杉勢は、河越城を包囲していたものの、北条氏康の夜襲を受けて大混乱になったと言います。その一部が松山城(この当時、扇谷上杉氏の居城)に退却しようと、松山街道を北上しようとしたのでしょう。
河越城から東明寺口に向けて、下り坂の松山街道を走った両上杉勢を待っていたのは、新河岸川。おそらく両上杉勢もこの川に小さな橋を渡していたことでしょうが、大軍が一気に渡ることはできなかったはず。あるいは大勢で渡ろうとしたために、小橋が川に落ちたことも想像されます。
この地が河越合戦最大の激戦地となったのは、この川を渡れず混乱する両上杉勢のところへ、夜襲の成功で勢いに乗った北条勢が襲い掛かったからではないでしょうか。余勢をかって坂道を下って攻め寄せる北条勢の前に、逃げるに逃げられぬ状態の両上杉勢は、体制を立て直す間もなく、次々討たれていったことでしょう。「屠る」という言葉が相応しいような惨劇が、そこでは繰り広げられたのではないでしょうか・・・。
太田資正は、この激戦の最中、どこにいて、何を思っていたのか?
そんなことを思いながら歩いた、東明寺でした。