群馬県太田市にある自然食品カフェに足を伸ばしたついでに、市内にある新田金山城跡にも寄ってみました。

新田金山城は、かの太田道灌が「天下の名城」と称賛した壮大な山城。我らが太田資正とも関わりの深い城です。
今日は、その極一部しか歩きませんでしたが、標高236メートルの独立峰に築かれたこの山城のスケールを十分体感することができました。

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新田金山城の本丸は、この山道のずっと先なのですが、今日は寒すぎてここで断念。妻の病気は体を冷やすのが一番いけないことなので、引き返すことにしました。

夏に再度訪問したいと思います。

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新田金山城は、我らが太田資正とも関わりの深い城です。
太平記の英雄・新田義貞による築城伝説のあるこの城の代々の城主は、新田一族の岩松氏。太田道灌が同城を訪ねた際も、岩松氏が城主でした。しかし、資正の時代、この城に入って太田の地を総べたのは、岩松氏の家宰の横瀬氏(後に由良氏)です。主家の岩松氏を退けて下剋上でのし上がった横瀬氏でしたが、時の当主・横瀬成繁は、太田資正とは親交があり、資正の窮地をたびたび救いました。

一度目は、天文15年の河越合戦。
当時26歳だった太田資正は、この合戦で北条氏康に敗れ、主君(扇谷上杉朝定)と義父(難波田善銀)、そして居城の松山城(武州松山城)を同時に失い、窮地に追い込まれます。
この時、救いの手を差し伸べたのが新田金山城の横瀬成繁。成繁に匿ってもらうことで、資正は、北条氏の追撃から逃れることができました。
その半年後、資正は、武州松山城を急襲し、義父の城を北条氏から奪還します。この反撃が可能だったのは、横瀬成繁が資正を守ってくれたお蔭だったと言えるでしょう。

二度目は、永禄9年頃。
嫡男・氏資に岩付城を追放された資正は、成田氏や宇都宮氏とともに横瀬氏を頼っています。
新田金山城下にある長楽寺には、横瀬氏の支援を受けた資正が岩付城奪還戦を行った際の顛末を記録した当時の僧の日記(長楽寺日記)が残されています。
横瀬成繁が積極的に資正を助けた姿が伺われます。

関東の覇者である後北条氏を向こうに回しての資正の活躍は、新田金山城の横瀬成繁の支え合ってこそだった、と言えるかもしれません。そして同時に、たびたび敗れた資正を横瀬成繁が助けることができたのは、難攻不落の新田金山城があってこそだった、とも言えそうです。

この城を少し歩いてみて、城の難攻不落の造りを体感することで、そう思えるようになってきました。

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地図で見る新田金山城。

■新田金山城の位置


■新田金山城の地形
標高236メートルの独立峰「金山」全体を要塞化した新田金山城。
地形図からは、「金山」の見事な独立峰ぶりが伝わってきます。
宇都宮の多気山城、佐野の唐沢山城など、関東に名山城は少なくありませんが、この独立峰ぶりは、他の追随を許しませんね。素晴らしい地形です。