江戸時代の岩槻藩藩主・大岡忠光公の墓所があることで知られる龍門寺。
岩槻城の大構(城下町ごと城を囲む土塁、惣構とも)の少し外側で、日光御成街道に面した寺です。

忠光公は、徳川将軍・家茂に仕え、異例の出世を成し遂げた人物です。

この寺に眠ることで、代々の徳川将軍が御成街道を通って日光に参拝するのを見守ろうとしたのかもしれません。


さて、龍門寺は、あくまで檀家さんのための寺。
あまり観光客向けの案内の無いお寺さんだったので、最初は入り口が分からず迷ってしまいました。

通りかかったおばあさん(住職の親戚だとか)に、入り口までの経路と、寺の敷地内を案内してもらい、助かりました。

ありがとうございました。




参道



山門


本堂


忠光公の墓所



開基は江戸時代かと思っていましたが、案内板を見ると、戦国時代花盛りの天文19年。太田資正が、岩付城(岩槻城)に入って3年後です。

太田資正は、天文16年に岩付城に打ち入ったばかりのところを、北条氏康に攻められ、翌天文17年に降服します。
その後、北条氏の他国衆となってから岩付領の整備を進め、天文18年には慈恩寺に寺領安堵の判物を出し、翌天文19年には、岩付領総鎮守の久伊豆神社の改修をしています。

龍門寺が開基されたのは、まさにこの天文19年。となれば、太田資正とも関わりがありそうですが、案内板にあった開基者の名前は、私の知る岩付太田氏の家臣団には無いものでした。


寺の中には、天正年間の秀吉による北条征伐の一環としての岩付城攻めの戦没者を慰霊するための石碑がありました。
寺の開基者も、岩付城に籠って戦った、龍門寺自体も合戦の舞台になった、とあります。

岩付城に入った北条氏に殉じるところのある寺だったのかもしれませんね。

静かで、雰囲気のよい寺でした。

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地形図上で龍門寺の場所を確認します。

龍門寺と岩槻城