午前の講演が終わった後で、ランチのお伴として購入。字の大きい新書だったので、ランチの間に読み終えました。

感想は、、、

正直なところ、期待したほどの内容ではありませんでした。

史上類を見ない低金利に直面する現代を、通常のマクロ経済の手法ではなく、歴史学(というより世界システム論)の手法で分析し、壮大なスケールで資本主義の終わりを論じる水野節。

この水野節に初めて接する方ならば、一読置くを能わざる一冊となること請け合いです。しかし、氏の著作を何冊か読んだことがある場合は、あまり読むべきところはないと言えます。

ダイナミックで壮大な水野経済史観は面白いのですが、
・「脱成長」を主張する時の成長が“名目”なのか“実質”なのかを明らかにしない、
・資本主義に代わるシステムの構築を目指さなかった批判しておきながら、自らも代替案を示せない、
という、ちょっと困った欠点があります。

これらのちょっと困った欠点が、今度こそ補完されるのでは、と期待していたのが今日の私でしたが、それは見事に裏切られました。(勝手に期待して勝手に裏切られたと言われても、水野氏も苦笑するしかないかもしれませんが、笑)

一番がっかりし、水野氏の学問上の品性を疑ったのは、「脱成長」論における克服すべき「成長主義」が、名目成長率の話か、実質成長率の話なのかを、今回も明らかにしなかったことです。

資本主義に代わるシステムを提案することに比べ、自らが否定する成長主義が名目ベースか実質ベースかを明らかにすることは、何ら難しくないことです。
水野氏自身が論敵と認めるリフレ派経済学者が、水野氏に対してたびたびぶつけている質問であることを考えると、水野氏はもはや、わざとこの質問を無視しているのでは、疑いたくなるほどです。

否定すべき成長主義が名目ベースの成長か、実質ベースの成長か。
私が何故そこに、こだわるかと言えば、それがとても大きなポイントだからです。

端的に言えば、実質成長率が上昇しなくても、名目成長率をプラスに持っていくコントロールができらば、総人口が減る社会においてもマネーが回り、仕事が生まれ、雇用が作られる社会を実現できる可能性があります。

貨幣現象のコントロールによる、「脱・実質成長」経済とでも言えるかもしれません。

水野氏ファンでありながら、リフレ派経済学者(クルーグマン等)のファンでもある私が、たどり着いた、リフレ派的脱成長経済です。

しかし、水野氏は、依然として成長を語るときに、名目ベースか実質ベースかの区別すらしません。私のような素人でも思い付くような、実質ベースの成長率は諦め、金融政策で名目ベースの成長率だけ担保してはどうかという、「脱成長」論を議論の遡上に載せることもできません。成長を奪われたら資本主義は成り立たない、資本主義は終焉だ、と過激に走しるばかり。(これがリベラル派に受けている訳ですが)

いやいや、そうじゃないでしょ。

クルーグマンも、日本のような総人口減社会では、金融緩和をしても実質成長率はプラスにならないかもしれない、と認めています。
しかし、名目成長を達成しなければ、マネーが回らず、仕事も、雇用も生まれない、としています。そして、それ故に金融緩和を、と論じているわけです。
そこには、弱者に雇用をもたらすにはどうしたらよいか、という発想があります。

対して水野氏は、
・金融緩和では成長率はプラスにならない(名目か実質かはっきりしませんが、どうも、実質ベースのイメージで語っています。それなら、クルーグマンだって条件次第で頷きます)。
・金融緩和は次のバブルを生むだけで、結局庶民の賃金を下げるだけ。(金融緩和しないでデフレを放置したら、得するのは金持ちで、庶民は失業していく、ばかりなのに、それは無視ですか?)
と、語るばかりです。

実質成長率マイナス下において、マネーのコントロールで名目成長率をプラスに持っていくことが、難しいのはわかりますが、検討すらしない水野氏の論法は、大きな穴が空いていると言わざるを得ません。

資本主義に代わる新しいシステムを、と代案なしの夢を語る前に、資本主義を修正・補正して走らせる具体策をまず考えてほしいものです。

床屋政談としては抜群の面白さですが、政策にはならないのが水野氏の論の残念なところです。
資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)/集英社
¥799
Amazon.co.jp