福井晴敏のコメントをもう一度読み、私の批判がずれているような気もしてきました。
福井さんが「100人に対して5脚の椅子」という喩えで表現しているものはやはり分かりにくいのですが、どうも、銀行による過度な信用創造が実体経済を上回る金融取引を産み出したことを批判しているようです。
そして、現在行われている中央銀行による金融拡大という信用創造を、銀行による信用創造と同じで、やがて化けの皮が剥がれる、と指摘しているようです。
実体経済を上回る金融取引は、実体経済による裏付けが無いが故にいつか弾けるバブルだ。
それは、民間銀行による信用創造については当てはまるかもしれません。民間銀行による信用創造は、マネーの回転速度が高まったが故に起こる現象。マネーの回転速度が遅くなれば、回転速度が最高だった時点に比べて信用は収縮することになります。一旦始まった信用収縮は次の信用収縮を生み、バブル崩壊に至ります。
そこには、マネーの流通量に見会わぬ額面の債権が積み残された世界が現れます。人々は債権を新たに生む(買う)ことを嫌うため、債権の利子はどこまでも低くなり、ついには「投資するよりマネーを手元に置いたままの方がいい」世界、即ちデフレの世界が現出します。
しかし、中央銀行による信用創造は、様相が異なります。
マネーの回転速度を高めて信用創造を行う民間銀行と異なり、中央銀行の信用創造は「無から有を生み出す」形で、マネーそのものを増やします。
マネーの回転速度の最高時に、その残像に合わせて生み出された巨額の債権(不良債権)を、今、このマネーが穴埋めしています。
コインを二枚擦り合わせて三枚や四枚に見せるマジックが民間銀行による信用創造だとすれば、中央銀行による信用創造は、二枚のコインを薄くスライスして、計四枚に増やす強引な力技です。
コインを擦り合わせる速度が速かろうと遅かろうと、四枚に増えたコインは、やはり四枚です。
この違いが、二つの信用創造の異なる結果をもたらします。
マネー自体を増やす訳ではない民間銀行の信用創造は、皆が「バブルか?」と疑った瞬間から逆転します。分身の術が解けたマネーの価値が高まり、マネーの分身の術を前提にしていた債権は崩壊し、価値が無くなります。
債権が取引されない世界では、実体経済も収縮していきます。
マネー自体を強引に増やしてしまう中央銀行の信用創造では、マネーの価値がどんどん薄くなり、人々は利子収入をもたらす債権に回帰することになります。
債権が取引される世界は、実体経済が成長する世界です。
この中央銀行による信用創造が行き過ぎたらどうなるのか。
待っているのは、マネーの価値の大暴落です。極端な場合、ハイパーインフレのような大惨事もあり得ます。
しかしこの惨事は、民間銀行による信用創造の果てのバブル崩壊後の世界とは全く異なる現象です。
前者ではマネーが価値を失い、後者では債権が価値を失う関係です。
100人に対して5脚の椅子は、後者(民間銀行による信用創造が行き過ぎた場合)の世界における、債権の総額面(信用創造の最高時のマネー回転速度)と回収できる債権(通常のマネー回転速度)の関係だとしとら、福井さんのイメージに近いでしょうか。
ところがこのアナロジーは、前者(中央銀行による信用創造)の世界には当てはまりません。
マネーの価値を下げてまで行われる不良債権の買い取りと同額のマネー放出により、債権の総額面は債権者に帰ってくるのです。
100人全員が椅子に座れる世界です。
椅子はショボくなっていますが。
そう、福井さんが「100人で座れるように椅子をばらした」状態です。
やっと、頭が整理されてきました。
福井さんは、民間銀行による行き過ぎた信用創造を「100人に対して5脚の椅子」の世界だと責めた。
そして、椅子を100人でも座れるようにばらすべし、と主張しながらも、中央銀行による信用創造(金融緩和、リフレーション、アベノミクス)が、まさにその施策だと気づかなかった。
中央銀行による信用創造もまた、憎むべき行き過ぎた民間銀行による信用創造と同一と誤認してしまった。
そんなところですかねぇ…
人類資金1 (講談社文庫)/講談社
¥263
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福井さんが「100人に対して5脚の椅子」という喩えで表現しているものはやはり分かりにくいのですが、どうも、銀行による過度な信用創造が実体経済を上回る金融取引を産み出したことを批判しているようです。
そして、現在行われている中央銀行による金融拡大という信用創造を、銀行による信用創造と同じで、やがて化けの皮が剥がれる、と指摘しているようです。
実体経済を上回る金融取引は、実体経済による裏付けが無いが故にいつか弾けるバブルだ。
それは、民間銀行による信用創造については当てはまるかもしれません。民間銀行による信用創造は、マネーの回転速度が高まったが故に起こる現象。マネーの回転速度が遅くなれば、回転速度が最高だった時点に比べて信用は収縮することになります。一旦始まった信用収縮は次の信用収縮を生み、バブル崩壊に至ります。
そこには、マネーの流通量に見会わぬ額面の債権が積み残された世界が現れます。人々は債権を新たに生む(買う)ことを嫌うため、債権の利子はどこまでも低くなり、ついには「投資するよりマネーを手元に置いたままの方がいい」世界、即ちデフレの世界が現出します。
しかし、中央銀行による信用創造は、様相が異なります。
マネーの回転速度を高めて信用創造を行う民間銀行と異なり、中央銀行の信用創造は「無から有を生み出す」形で、マネーそのものを増やします。
マネーの回転速度の最高時に、その残像に合わせて生み出された巨額の債権(不良債権)を、今、このマネーが穴埋めしています。
コインを二枚擦り合わせて三枚や四枚に見せるマジックが民間銀行による信用創造だとすれば、中央銀行による信用創造は、二枚のコインを薄くスライスして、計四枚に増やす強引な力技です。
コインを擦り合わせる速度が速かろうと遅かろうと、四枚に増えたコインは、やはり四枚です。
この違いが、二つの信用創造の異なる結果をもたらします。
マネー自体を増やす訳ではない民間銀行の信用創造は、皆が「バブルか?」と疑った瞬間から逆転します。分身の術が解けたマネーの価値が高まり、マネーの分身の術を前提にしていた債権は崩壊し、価値が無くなります。
債権が取引されない世界では、実体経済も収縮していきます。
マネー自体を強引に増やしてしまう中央銀行の信用創造では、マネーの価値がどんどん薄くなり、人々は利子収入をもたらす債権に回帰することになります。
債権が取引される世界は、実体経済が成長する世界です。
この中央銀行による信用創造が行き過ぎたらどうなるのか。
待っているのは、マネーの価値の大暴落です。極端な場合、ハイパーインフレのような大惨事もあり得ます。
しかしこの惨事は、民間銀行による信用創造の果てのバブル崩壊後の世界とは全く異なる現象です。
前者ではマネーが価値を失い、後者では債権が価値を失う関係です。
100人に対して5脚の椅子は、後者(民間銀行による信用創造が行き過ぎた場合)の世界における、債権の総額面(信用創造の最高時のマネー回転速度)と回収できる債権(通常のマネー回転速度)の関係だとしとら、福井さんのイメージに近いでしょうか。
ところがこのアナロジーは、前者(中央銀行による信用創造)の世界には当てはまりません。
マネーの価値を下げてまで行われる不良債権の買い取りと同額のマネー放出により、債権の総額面は債権者に帰ってくるのです。
100人全員が椅子に座れる世界です。
椅子はショボくなっていますが。
そう、福井さんが「100人で座れるように椅子をばらした」状態です。
やっと、頭が整理されてきました。
福井さんは、民間銀行による行き過ぎた信用創造を「100人に対して5脚の椅子」の世界だと責めた。
そして、椅子を100人でも座れるようにばらすべし、と主張しながらも、中央銀行による信用創造(金融緩和、リフレーション、アベノミクス)が、まさにその施策だと気づかなかった。
中央銀行による信用創造もまた、憎むべき行き過ぎた民間銀行による信用創造と同一と誤認してしまった。
そんなところですかねぇ…
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