松濤館の「観空大」(by 金澤弘和先生)


小林流の「クーサンクー大」(by 仲里周五郎先生)



この二つの型は、立ち方の足幅の違い(松濤館=広い、小林流=狭い)や、使われる蹴り技の種類の差異(松濤館=横蹴り、小林流=前蹴り)以外は、ほとんど差異はなく、基本的には同じ型だと思っています。しかし、少し前からもう一か所の相違点が気になっています。

それは、蹴りの後の踏み込んでの肘当ての時の「後ろ足の寄せ」です。
金澤先生の動画ではちょうど1:00の場面、仲里先生の動画ではでは0:53の場面です。
金澤先生に限らず、松濤館の「観空大」では、横蹴りの後の肘当ての際、後ろ足を寄せていません。対して、仲里先生の方は後ろ足を寄せています。沖縄では、仲里先生あるいは小林流に限らず、クーサンクーをやる首里手の系統の空手ではかならずこの部分で後ろ足を寄せているようです。

どちらがよいという話ではないのですが、
この後ろ足の寄せがあるかないかで、肘を決める際の腰のあり方は大きく変わり、結果的に身体の動かし方自体の質が変わる(言い過ぎ?)ため、非常に大きな差異だと思います。

同じ型の中でのこの差異は、いつ生まれたのか?
そう疑問に思い、船越義珍の「琉球拳法唐手」(1922年)を開いてみました。すると、この本の時点では、船越先生の「公相君」には後ろ足の寄せがあるのです。

曰く「蹴放したる足を其場に下ろすと同時に直ぐに右足を少し引摺り進めて右猿臂を仕ふ」(公相君 第二十九図より)

この記述のある「公相君 第二十九図」における船越先生のイラストは、腰が前に出て上体がやや後傾しています。吉田始史先生の言う“仙骨を締めた状態”であり、仲里周五郎先生の肘当ての際の身体の状態と基本的に同じです。

同じ説明は、1924年の「錬胆護身唐手術」にも受け継がれています。
変化が現れるのは、1935年の「空手道教範」から。同書の「観空大」(既に改称済み)の右足蹴り→左肘当ての説明は「蹴り放した右足を其の場に下すと同時に、左猿臂を使ひ」とあり、註に「右足を下す時、少し左足を引摺って進める気持ちがあつてよい」と書かれるにとどまっています。

もともと前後に足幅を広く取らなかった船越義珍にとっては、後ろ足を少し引摺り進めると書いても、その気持ちがあってもよいと書いても、結果に大きな差はなかったように思います。しかし、足幅を前後に広く取るようになっていた船越門下の若き修行者にとっては、この差は大きかったはず。

開祖にとってはそれほど大事ではなかった記述の変更がやがて、開祖自身が本土に持ちこんだ「公相君」を、現在の松濤館の「観空大」に変えて行ったのかもしれないですね・・・。

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<2010/5/31加筆>
「琉球拳法唐手」(1922年)の「公相君」第二十八図
$はみ唐さんの空手、コンサル、親バカ日記-MA330895.jpg

「琉球拳法唐手」(1922年)の「公相君」第二十九図
$はみ唐さんの空手、コンサル、親バカ日記-MA330896.jpg

第二十八図では右足(軸足、支持脚)は演武線上にありますが、続く第二十九図では寄せられて演武線から外れています。
そして、第二十九図の船越先生の姿勢は、まさに仙骨を締めた状態。サンチン立ちや基立ちでの突きで見られる腰の状態。後ろ足の寄せがあってこそ無理なくなせる腰のあり方です。

これを見ると、船越義珍が持ち込んだ「公相君大」は、上で仲里周五郎先生が演じている「クーサンクー大」とほとんど同じだと感じます。

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