昨日はIKEAから帰った後、近くの公園で存分に棒の一人稽古をしました。

例によって「周氏の棍」の苦手な部分を切り出して繰り返し、その後に連続させていく、という内容。
前よりは少しずつ良くなっている気はしますが、「思い切り振る!突く!」を実践すると、ぎこちなくなったり、棒に振られてしまったり。突き以外の全ての挙動で風切り音を出し、かつ全てを滑らかに繋ぐ、という目標まではまだまだです。

さて、ふと棒を振りながら思ったことがあります。
それは、空手の稽古をしているとどこか“超人”を目指す意識が伴うのに対し、棒術の稽古では“達人”を目指す意識が芽生えているのではないか?ということ。

素手素足の打撃で敵を倒すことが求められる空手では、「上手く当てる」「上手く体を操作し体重を載せる」といった意識と同時に、「不十分な身体操作でも効かせる筋力を!」「失速しないスタミナを!」「砕けない拳を!」という意識が生じます。
極端な言葉を使えば、そこには“超人志向”があります。脆い肉体を武器化する必要性故に自然に湧きだす想いです。

一方で棒を持つと、「棒を上手く操作する」という一点に意識が集中します。
樫の(あるいはクバの木)の固く長い棒という十分に破壊力を持つ武器を持つことで、この武器を如何に的確に操作し尽くすか、という意識が心を支配するのです。

自然と超人を志向する空手と、自然と達人を志向する棒術。どちらが正しいのではなく、どちらの志向性も必要なのだと思います。
空手と古武術(武器術)は両輪であると言われる由縁の一つは、こうした部分にもあるのではないか?
そんな妄想を抱いた昨日の一人稽古でした。

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以下、妄想の延長。
武器術としては、鈍器である棒よりも、鋭器である刀剣や槍の方がより筋力依存が減り、身体操作志向≒達人志向が強いのかも?

同じ空手でも、ポイント制の試合をする流派・会派は、フルコンタクト系の空手に比べ、達人志向が強い?