ハムと二人になってから、少しの間、北大路近くの高野川沿いに住んでいた。


ハムは幼稚園。出町柳まで送り迎えの日々。車


私は本当にダメな母親で、ハムのお弁当袋ひとつ手作りしてやれない。しょぼん

そんなハムを不憫に思ってくれた友達がいた。


そのスヤマという友人は、ハムのお稽古バッグから、お弁当袋、水筒袋、

お財布から、ハンカチ、洋服、なんと、幼稚園バッグまで全部手作りしてくれた。

(幼稚園は私服、かばんも自由だったの)


This is kyoko mine という、アップリケを全てにつけて、全て同じ柄、

少しクッションのある生地で、それはそれは素晴らしくかわいかった。ワンピース

(今でも実家に大事にとってあるの)


スヤマは、当時大阪の会社に勤めていたけど、ほぼ毎週末うちにきて

私たちと一緒に過ごしていた。自分の家にいる時にセッセと作って

くれて・・・・・。ホント、感動もの。しょぼん


来るたびに、ハムにデイジーダックのぬいぐるみや、セーラームーンの

ステッキ、セーラームーンのビデオなど、私が買ってあげないものを

おみやげに持ってきてくれて、この上なくハムをかわいがってくれたので

ハムもスヤマのことが大好き!ラブラブ 


おかげで、私は幼稚園の先生方からは、ダメな母親扱いされずにすんだ。

それは私にとってとても大きなことだった。

それでなくてもハムを離婚の犠牲にしたことで打ちひしがれていたから。


スヤマの愛情のおかげだった。


私たちは、週末、よく高野川の近くの公園で遊んだり、北大路から少し

上がったところのおばんざい屋さんに出かけたり、けっこう楽しく過ごしていた。


スヤマは着付けも上手で、浴衣をハムに縫ってくれて、この時期には

その浴衣を着せて、近所の地蔵盆に出かけたり。音譜


スヤマの選んだ生地は、パステルピンクで、色の白いハムに

本当によく似合っていた。



ところが、あるとき、スヤマは岡山の実家に帰らなくてはならなくなって

なかなか会えなくなってしまった。その後に私も静岡に引越したから。


北山にあった(今もあるかな?)タムサバーイというタイ料理の

お店で、スヤマと私とハムとで、京都での最後のお食事会をした。

トムヤムクンがすさまじく辛く、でもとても美味しかったのを覚えてる。


スヤマと過ごしたのはそれが最後だった。


そして、2年前、永久にスヤマには会えなくなった。


高野川沿いを散歩しながら、スヤマは言ったことがあった。

「アタシ、40歳以降の自分の姿が想像できないんよー」


そんなこと実現してどうすんだよむかっそんなにあっけなく逝かなくても・・・・。




今日、ハムがまた写メを送ってきた。浴衣着てる。



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スヤマ、ハムはこんなに大きくなったんだよ。1人で浴衣着たんだよ。


ありがとう。スヤマ。私たちはあなたのことを絶対忘れないよ。