朗読用物語26.『いつか死ぬ命』 | enjoy Clover

enjoy Clover

三つ葉を伝える路上詩人じゅんぺいのブログです。
日常の喜びを中心に日々の出来事を書いていきます。

朗読用物語26.『いつか死ぬ命』
 

「万が一の場合、母体と子ども、どちらを優先させますか?」

 

僕が迷わずに「もちろん母体で」と答えたのと同時に、静香が「子どもでお願いします」と答えた。顔を見合わせる僕たちに向かって、先生は「一応、よく話し合っておいてください」と告げた。

 

 妻の静香は、八年ぶりに二人目の子どもを妊娠した。僕より二歳年上の妻は今年で四十歳になるので、初産ではないにしても定義的には高齢出産になる。病院からの帰り途中、今年九歳になる娘の華菜のピアノ教室が終わるのを待つために、僕たちは駅前のカフェで時間を潰していた。ここのカフェは、喫煙席と禁煙席がフロアではっきり分かれているのがありがたい。もちろん僕たちが座るのは禁煙席だ。

 

 「ねえ、華菜が生まれた時、あなたはどんなことを思った?」

 

カフェインの入っていないメニューを確認して選んだマンゴーパッションティーフラペチーノで軽く唇を湿らせてから、静香が僕に尋ねた。

 

「そりゃ、今まで生きてきた中で一番といっていいくらい嬉しかったよ。どんなことがあってもこの子を守らなきゃって、そう思った。」

 

僕が答えると、静香は軽く微笑んで自分のお腹をに手を当てた。今月で六ヶ月目になり、日に日に大きくなっているお腹だ。

 

「この子もね、ちゃんとここにいるんだよ。まだ生まれてはないけど、もう、私たちの子どもなんだよ。」

 

静香は手をお腹に当てたまま、視線を僕の方に向けた。

 

「自分の子どもを守らない親が、いったい生きて何をするっていうの?お願い、もし万が一のことがあったら、その時は赤ちゃんの命を守ってあげて。」

 

僕は、何も答えることができなかった。まっすぐ僕の目を見る静香から、目を逸しそうにさえなった。父親は子どもが生まれてから初めて父親になるけど、母親はその十ヶ月も前から母親になる。「男は女には敵わねえよな」と、華菜が生まれた時に静香の父親から言われた言葉を思い出す。僕が「わかった」と頷くと、静香の携帯の着信音が鳴った。

 

「華菜、レッスン終わったって。早く迎えに行こっか。」

 

 

 妊娠八ヶ月目に入って、静香が入院することになった。妊娠高血圧症候群といって、だいたい妊婦の二十人に一人くらいの割合で起こる病気らしい。静香は一人で診察に来ていてそのまま入院することになったので、僕は仕事を早めに切り上げて、病院に静香の着替えと時間つぶしのための文庫本を持って行った。

 

「ひとつだけ、ワガママ言ってもいいかな?」

 

少し顔のむくんだ静香が言う。

 

「この子の名前、私に考えさせて。もし私が死んじゃったら、私この子に何もしてあげられないでしょ?だから、せめて名前だけは、私からこの子にプレゼントさせて。」

 

僕はなるべく明るい声で、「生まれたら、ちゃんと静香の声でその名前で呼んであげろよ。」と答えた。

 

病院からの帰り、今日は一人でピアノ教室帰りの華菜を迎えに行く。病気や入院のことを華菜にどうやって説明しようか考えながら、僕は待ち合わせ場所である駅前の広場に向かった。

 

「パパ!聞いて聞いて!」

 

ピアノのレッスン帰りの華菜がいつもよりはしゃいでいる。僕が「どうしたの?」と聞いたら、華菜は嬉しそうに答えた。

 

「華菜、さっきインタビューされてテレビに出たんだよ!ほら、あれ!」

 

華菜が指差した先には、地方テレビで放送している夕方のニュース番組のロゴが入ったテレビカメラを持った男たちがいた。そこには、「あなたの夢はなんですか?」と書かれたボードも置いてあった。

 

「そっか。将来の夢を聞かれたのか。それで、華菜はなんて答えたんだい?」

 

僕が尋ねると、華菜は自信満々な顔になって答えた。

 

「幸せな家族!私がいて、ママがいて、パパがいて、赤ちゃんもいて、みんなが笑ってる幸せな家族。」

 

 満面の笑みを浮かべて言う華菜を見て、僕は胸がチクリと痛んだ。みんなが笑ってる幸せな家族、その夢はどうしても叶えてやりたい。いや、誰よりも僕自身が、その夢が叶って欲しい。

 

 「あれ?そういえばママは?」

 

 母親がいないことに気付いた華菜に向かって、僕はこう言った。

 

「ママはね。赤ちゃんを生む準備をするために今日から入院するんだ。華菜が楽しみにしている、幸せな家族のためにね。」

 

 

 

静香が入院してから二ヶ月が経ったある日、早朝に病院から電話があった。突然陣痛が始まった。予定日より少し早いが、今日にでも産まれるかもしれないという内容だった。僕は華菜を起こして急いで病院に向かった。予定日よりも早く、というのが僕の心を動揺させた。「どちらを優先させますか?」という質問が頭をよぎる。

 

病院に着いた頃には、静香はすでに陣痛室から分娩室に移動していて、僕と華菜は待合室で待機することになった。時々、静香の叫び声が聞こえる。その度に僕は華菜の手を握り「大丈夫だよ。」と繰り返した。本当は、その言葉は娘にではなく自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。華菜が産まれた時は、三十三時間に及ぶ難産だった。

「もし万が一の事があったら…」

静香の言葉を思い出して、僕は無事を祈った。僕が無事であってほしいのは、静香の命だろうか。それとも子どもの命だろうか。一瞬迷った時に、華菜が僕の手を強く握り返した。そうだ。幸せな家族だ。誰も欠けちゃいけない。みんなが笑っている幸せな家族の無事を、僕は祈った。ちょうどその時、分娩室の方から大きな産声が聞こえてきた。

 

 

 

産後の処置が終わって、落ち着いて対面できたのは夕方になってからだった。

「母子ともに無事で、本当によかったよ。」

初産の時よりも安産だったからか、静香の顔色は八年前に華菜を産んだ直後よりもずいぶんといいように感じた。華菜は対面の時間までに待ち疲れて、僕の背中で眠ってしまっている。

「ねえ、私、死んじゃうと思った?」

静香は、言葉とは反対に軽い声で僕に尋ねた。

「死んで欲しくないと思ってた。」

僕が答えると、静香は続けた。

「死んじゃうんだよ。いつか。私も、この子も。」

思いもよらない静香の言葉に、僕が「そんなこと言うなよ」と返すと、静香は少し笑って答えた。

「ゴメンゴメン。悪い意味とか変な意味じゃなくてさ。」

静香は、ベビーベットで眠っている生後数時間の我が子の方を見つめた。

「自分が死ぬかもしれないって思って、いろいろ考えたの。でもよく考えてみたらさ、別に今じゃなくても、やっぱりいつかは人は死ぬんだよ。私も、あなたも。もちろん子どもたちもね。」

僕は静香が何を言いたいのか、よく分からなかった。静香はそのまま続けた。

「だからさ、一緒にいられる時間を、何よりも大切にしようって思った。いつかサヨナラする時が来るって分かったから、私、大切にしたい人を本当に大切にできるなって思った。長いとか短いとかは関係なくさ、どっちかが死ぬまで一緒にいられるって、すごく幸せなことだと思わない?」

静香の言っていること、分かるような気もするし、やっぱりよく分からないような気がする。それでも、僕にもひとつだけ分かることもある。

「つまり、みんなが一緒にいる今は幸せってことだな。」

背中の華菜を静香のベッドに寝かせると、僕はベビーベットから、今日産まれたばかりの我が子を抱き上げた。2865gの命が、何よりも重たく感じた。

 

「そうだ。この子の名前、考えてたんだろ?いい名前は思い浮かんだ?」

僕が尋ねると、静香は自信満々な顔になった。そういえばこんな顔、最近華菜もよくするようになったな。僕が思わず笑いそうになると、静香はゆっくり口を開いた。

「うん。その子の名前はね…」

静香は、まるで魔法の言葉を口にするかのように、産まれたばかりの我が子への最初のプレゼントとなる名前を丁寧に口にした。その瞬間、腕の中の僕たちの子どもが、少し笑ったように見えた。




(完)

その他の物語はこちら
http://s.ameblo.jp/hamasakidende/entry-12168406147.html