ポルトガル海外進出史

                 

第一章 ポルトガルの「海外進出」の萌芽

 

 五世紀から十世紀の間に起こった出来事、つまりローマ帝国の分裂、異国の王国と東ローマ帝国との戦い、アラブ人の侵入、スラブ人の侵入とハンガリー紛争などは、政治的にも経済的にもヨーロッパにおける生活を混乱させた。しかし、すべてが破壊されて新しいものが創造されたことだけをとらえるのではなく、このような動乱が新たな進歩のきっかけとなったと考えるべきである。

 アフリカ北部を含めて、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャまでの地中海貿易圏が発展していった。ワイン、皮革製品、羊毛、塩、食料、衣服、装飾品、家財道具などの貿易があった。その他、王室、貴族の邸宅、寺院などのほか、個人の装飾品として異国の品物が好まれた。

 地中海貿易圏内では取引所bolsaが一二九三年にブルッヘ(ベルギー)に設立され、ポルトガルの船乗りや商人が積極的に活動していた。この頃すでに、ポルトガルの商人たちはフランスやイギリスの港を訪れていた。ポルトガルの建国は一一四三年のことだが、以下、建国前後の海上活動から考察していく。

 

ポルトガルの対外商業の起源と発達 

 九世紀まで、地中海沿岸の商人たちは、東洋の産物を北ヨーロッパに運ぶために、陸路にてフランスのカオールを通って、ボルドーやラ・ロシェルなどの町に達していた。しかし、陸路では突発的争いに遭遇することもあるので、地中海を通ってイベリア半島を迂回して、ボルドーなどの町に到着する安全な海路による方法も採った。このような経緯から、東地中海(レヴァント地方:現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン)から出発した船舶が、ポルトガルに寄港していた。香辛料貿易などの商売が、ポルトガル国内で行われたのは十二世紀になってからで、コインブラで香辛料が販売されていた。

 このように、ポルトガルと他のヨーロッパ諸国との交易は、十二世紀から行われていた。外国船がイベリア半島を迂回するときに、ポルトガルに立ち寄っていたことに端を発したものによる。ポルトガルの貿易船が、はじめて英仏海峡に出没したのは一一九四年に遡る。同年、フランドルは、糖蜜を積載したポルトガル船の到着を待っていたのだが、ポルトガル船が遭難したことによって、糖蜜が届かなかった。当時、フランドルではサトウキビの栽培がなされていなかったので、糖蜜はどこかで生産されてポルトガルにもたらされ、フランドルに再輸出されたことになる。また、ギリシャ地方で毎年開催される市にもポルトガルが参加している。

 一二二五年、三十人のポルトガル人が乗ったポルトガル船がイギリスの海賊船に拿捕されている。一二四〇年、ポルトの貴族がフランスに住んでおり商業を営んでおり、少数のポルトガル人が国外に貿易のために居住していたことが認められる。

 十三世紀には、まだイスラム教徒のムーア人がイベリア半島に残存しており、キリスト教の諸王国は、ムーア人が北アフリカのモロッコとの交易を海路にて行っていることを知っていた。サラセン人は、造船業が活発だったポルトガル南部のアルカーセル・ド・サルの河川にある港を貿易港として利用していた。レコンキスタの後に残存していたムーア人は、キリスト教に改宗し、自由な人間としてポルトガルに住む許可状フォーロを得て、北アフリカとの交易を行い続けていた。このようなムーア人の対外商業活動対して、ポルトガル人が参入していき、船舶を利用した交易に従事していた。

 地理的に海に面したポルトガルの自発的対外商業へのこうような参入が、ポルトガルを海路で海外発展させた端緒と考えることができる。ポルトガルの船舶は大規模なものではなく、ポルトガルの諸都市を巡ることの沿岸航海ができる程度のものであり、小規模の船舶がイギリスへ航行していたと考えられる。一二一〇年、ポルトガル国王サンショ一世の法律によると、船舶を用いた国内商業について言及しているので、沿岸航海はかなり発達していた。

 十三世紀に、ポルトガルから輸出されていた主要な産物は、ワイン、塩、オリーブに限られていたが、二次的な輸出品として木材がある。コルク、蝋、皮革製品などは国外との交渉において、あまり関心がみられなかった。また、アルガルヴェ地方のレコンキスタ後、イチジク、アーモンド、ドライフルーツなどが物々交換されるようになった。輸入されたものとして、北ヨーロッパで製造された武器、鉄製品、布、贅沢品、食料などがある。ラ・ロシェルからは、パンを作るための小麦粉が輸入された。

 一二八七年のポルトガル国王ディニースの書簡には、現在のサン・マルティーニョ・ド・ポルトの近くにあるセリールの港にもたらされた王室の輸入品として、染色された布、小型武器、金、銀、胡椒、サフラン、鉄、鋼鉄、鉛、錫、銅が言及されている。

 一二五三年、ポルトガル国内の市場にて、輸入品に法外な値段がつけられていることに注目したポルトガル国王が、助言者などの意見を参考にして、販売されているすべての輸入品の価格表を作成するように命じた。また、国外との貿易ルートは、税関の仕事内容を容易にするために海路に限るとのこと、国内の産物は輸入品との正当な対価でなければ輸出しないように取り決めた。このような貿易に関する王室側の心配の背景には、ポルトガル貴族階級の貿易の独占を抑える目的があった。物々交換以外において、金貨や銀貨での支払いが要求された場合以外には、ポルトガルから金貨や銀貨が国外に輸出されることを禁止している。

 一二六九年、ポルトガル国王サンショ三世が、国内に市フェイラをつくることを奨励している。この時期からポルトガル国内で商業網が活発に発達した。国内商業が活発化すれば、国外の活発化した交易に対応できたので、フランス北部やイギリスとのポルトガルの貿易は、十三世紀後半に入港許可証や特権を得たポルトガル商人らによって活発化し、イギリスやフランドル地方に住み着いたポルトガル人もいた。この時期にポルトガル商人が貿易のために訪れた地域は、ノルマンディー、イギリス、フランドル、ラ・ロシェルの他、セヴィーリャ、北アフリカを含む地中海沿岸地域にまで及んだ。

 一二九七年、イギリス国王エドゥアルド一世は、ポルトガルの商人に安全通行証を発行している。一三五七年、リスボンとポルトの商人が、エドゥアルド三世に安全通行証の発行を直接願ったことを機に、ポルトガルのすべての商人、船主、船乗りに同様の便宜を図ることを保障した。このように、ポルトガルとイギリスの海上貿易は通常化し、翌年一三五八年、エドアルド三世とポルトガルの船乗り・商人代表アフォンソ・マルティンス・アーリョとの会談において、五十年間有効の貿易協定を締結した。

 その貿易協定はリスボンとポルトの船乗り、商人、貴族らとイギリス側との間で結ばれた、初めての画期的協定であった。商人と商品の安全を保証するという通常条項のほかに、ポルトガルがイギリスの敵地で得た財産の権利をイギリスが保証し、ポルトガルはイギリスの敵を援助しないことも合意された。その上、ポルトガルは、イギリスが管轄する港において、イギリス国民と同等の税金を払うことで漁業活動をすることが許可された。この貿易協定は、イギリスとポルトガルの国王同士で締結されたものではなく、ポルトガルのリスボン、ポルトの商人とイギリス国王の間のものであった。ポルトガル商人組合の発案によって、国王ディニースが承認して、イギリス国王と直接交渉するなど、イタリアで勢力を振るったイタリア商人組合と同じように、ポルトガルの商人も権勢を増してきていたのだった。ポルトガル商人の活動も広範囲のものとなり、ポルトガル商船は、オランダにまで達していた。

 

外国商人の特権とポルトガル商人保護 

 ポルトガル王室は、ポルトガル商人の目覚しい活躍のもとでの海上貿易の発展に注目した。自国の利益をあげるために、地中海沿岸地域の国々の商船をリスボンに寄港させることに、大きな関心を抱いていた。十四世紀前半まで、ポルトガル王室は、自国の貴族が好んで購入した布、贅沢品、武器などを供給した地中海沿岸地域の国々の商船の入港に、便宜を与えていた。大きな関税収入があったので、フィレンツエやジェノヴァの商人に安全通行証や特権を与え、更にはポルトガルとの貿易に専念させるためにリスボンに居住させることも勧め、外国商人の自由な貿易拡大が行われることとなった。一二八七年、ポルトガルのセリールの港に、布、武器、胡椒、鉄などがもたらされた。

 これらの初期の段階の貿易に関しては、外国商人が主体的に行ったものであり、特許状も個人宛てに発行された。一三三八年、ポルトガル国王アフォンソ四世は、フィレンツエの商人らとバルディ会社に対して、ポルトガルに居住することができる特許の書簡を発行している。この書簡には、東地中海諸国と北アフリカとの間で定期的貿易が行われており、その貿易を保護するために、ポルトガルの海賊が海上警備活動をしていたことを示している。ポルトガル国王ペドロは、一三五七年、ジェノヴァ、ミラノ、ピアセンツアなどの商人に特許状を発行している。一三六二年にはカタルーニャ人に、一三九八年にはイギリス人に対して同様の特許状を発行した。

 リスボンには多くの外国人が存在し、ワインや塩が積み出された。リスボンに集まった商船は、テージョ川を遡り、モンティージョやサッカヴェンにまで航行し、交易を行った。

 ポルトガル商人の発案を公的なものとして、商人の活動に安定性を持たせることができた。その顕著な例として、一二九三年、ポルトガル商人が、国外との商業中心地との関係を維持、支援するために、関税の支払いなどを適正、容易にするための商業銀行の設置が提案され、ポルトガル国王ディニースが承認した。十四世紀半ばからは、外国商人の活動に制限を与えて、ポルトガル商人と貴族は保護されるに至った。

 一三五八年、ポルトガル国王ペドロが、造船や魚の乾燥に木材を使用するために、ブアルコスの住人に対して自由にポルトガル王室の所有する森林を伐採する許可を与え、造船と貴族の繁栄という結果をもたらすことになった。一三八〇年に、ポルトとリスボンに初の海上保険会社が設置された。一三〇〇年代には、ポルトガルの商人と船乗りが、共通の利益を求めて活発な活動を行い、ポルトガル国内経済の中核部分を構成した。

 十四世紀に入ってもポルトガル王室の権力を商人らが享受することはなく、独自に海上活動を行わなければならなかった。ポルトガル王室が海上貿易に支援の手を差し伸べなかったということではなく、貴族を中心とする富裕層、商人と船乗りが、ポルトガル王室や国家を代表する程度の権勢を振るうほどの状態であったと言える。したがって、十四世紀後半になると、商人、船乗りが裕福で権力をもった貴族層を通じて、王室から彼らが有利になる法律を制定させるところまで、政権に影響力を及ぼすことができたのであった。

 この時期のポルトガルの国家経営には、法律家、知識人のほかに海上貿易に携わる貴族も参加しており、商人と船乗りに好都合な政策をとり、ポルトガルに在住する外国商人が享受していた特権に対して対抗することができたのであった。

 十五世紀初頭になると、貿易貴族階級は裕福で繁栄した権力の頂点にあり、海外への投資と進出の萌芽があった。地中海貿易においては、ポルトガル商人はジェノヴァ人、ヴェネチア人と同等の立場にあった。ポルトガル国王ドゥアルテの書簡には、リスボンにある無数とも言える商船が、地中海貿易の要所であった北アフリカのセウタを攻略できるとも述べている。ポルトガル商船は、すべてが戦争に利用できるように十分に艤装されていた。

 ポルトガルの貿易貴族の発案によって、一四一五年にセウタ攻略が行われ、ポルトガルの「大航海時代」「海外進出」が始まったとされているが、その歴史の舞台裏には、これまで考察してきたように、種々の経験と豊かさが蓄積されたポルトガル商人、船乗り、貴族との密接な関係があった。十五世紀のポルトガルの海外進出においては、貿易貴族の関心と利益のもとに、アフリカ沿岸の航海を通じて、奴隷や金の貿易が行われたのである。

 

ポルトガルの海軍力について 

 ポルトガルの海上貿易について、航海術の発展が寄与したことは言をまたない。商人たちは、高度な航海術をもっている船乗りに操船を任せていた。十三世紀後半のカスティーリャ国王に倣って、富国強兵政策をとったポルトガル国王ディニースは、一三一七年、自国の王室海軍とジェノヴァの船員マヌエル・ペッサーニャとの間で契約を交わした。

 ジェノヴァの船員がポルトガル貿易船の航海術の向上に寄与した。コンポステーラの司教の発案から、ジェノヴァ人は十一世紀になるとすでにガリシア地方の沿岸部の住民に造船技術を教えていた。以降、ジェノヴァ人はイギリス、フランス、アラゴン、カスティーリャで航海術を広めていた。

 ポルトガル国王ディニースとマエヌエル・ペッサーニャの契約において、ポルトガル王室海軍の任務に支障がない限りにおいて、部下と共に貿易船の艤装と訓練に取り組むことができると示されていた。契約締結一カ月後、王室艦船の乗組員の宿泊施設は、すべてマヌエル・ペッサーニャの管理のもとにおかれた。すなわち、メヌエル・ペッサーニャは、造船も含めてポルトガルにおけるすべての艦船の統帥権を掌握したのだった。このようにマヌエル・ペッサーニャにポルトガルの海の警備を全面的に任せることにした目的は、沿岸に出没する海賊の脅威を拭い去ることであった。

 また、国王ディニースには、異教徒であるイスラム教徒が住む北アフリカ沿岸まで、遠征に行くことも考えていたことも、マヌエル・ペッサーニャに海事を委任した目的のひとつとして排除できない。一三一七年の国王ディニースとマヌエル・ペッサーニャとの契約書の序文には、「アフリカに住む十字軍の敵に対して」との文言も見られることから、何らかのイスラム教徒との戦いの準備をしたことが考えられる。

 ローマ教皇ベント十三世の一三四一年の勅書には、ポルトガルにおけるジェノヴァ人マヌエル・ペッサーニャの存在の重要性を述べている。ローマ教皇ベント十三世は、イスラム教徒への十字軍の遠征を勧める前に、ポルトガルのそれまでの異教徒に対する戦争経験を振り返っている。教皇勅書は、ポルトガル国王ディニースの息子である国王アフォンソ四世に宛てられている。

 

 「国王ディニースのことは、はっきりと私の記憶にあります。ポルトガル南部のアルガルヴェ地方は、すでに申した敵(イスラム教徒の)地に程近く、ポルトガルの戦争に長けた者の船やガレー船から海上攻撃すれば、戦争はいとも容易であり、攻撃は敵に大きな損害を与えるであろうと国王ディニースはお考えになりました。したがって、国王ディニースは、遠方の地から貴方の(ポルトガル)王国に海事と戦艦の知識のある一人の男マヌエル・ペッサーニャを招聘され、海軍総督に任命されました。総督は、ガレー船や必要な艦船を造船するように命じ、ポルトガル人を訓練し、戦艦にて勇敢に活動できるようになされました。海事の実践と戦術において、ポルトガル人に匹敵するほかの人びとはいなく、ポルトガルの攻撃をかわすこともできず、すでに述べた(イスラム教徒の)敵を放逐できるでしょう。貴方のご尊父様が逝去されてから、貴方は総督マヌエル・ペッサーニャを貴王国に確保されおり、多大の栄誉をお与えになりました。総督のお陰で、ポルトガルの人びとと一緒になって、貴方は更にイスラムの敵に多くの深刻な損害をお与えになりました・・・」

 

 ポルトガルの海外進出事業は、北ヨーロッパや地中海における貿易を通じて多大に発達したポルトガルの商船を艤装して、貿易、軍事、宗教が結びついた大規模な海外進展・拡張の行動であったことが認められる。

 このような歴史的鳥瞰から考えれば、国内のレコンキスタが、海上活動のレコンキスタへと延長されたことが理解できる。したがって、ポルトガルの海上活動のレコンキスタは、「大航海」という言葉では表現することも包含することもできないので、「海外進出」のほうが的を得ていると考えるのである。

 

 

 

第二章 エンリケ王子と拡張主義

 

海外進出の要因

 ポルトガルの海外進出には多くの事情があった。ポルトガルにもほかのヨーロッパ諸国にもあてはまる一般的に重要とされている要因をいくつか挙げておく。

 一.ヨーロッパ商業の必要性について。十字軍遠征の時代以降、地中海の海上貿易が顕著に発達した。そして、ジェノヴァ、ヴェネチアにはヨーロッパの広い地域で消費される香辛料が中近東から運ばれてきており、香辛料は貨幣に匹敵するほどの価値があった。しかし、地中海に頻繁に現れる海賊やイスラム教徒の襲撃があり、後にはトルコ人の進出によって地中海貿易が思うように行われなくなった。そこで、香辛料を入手するほかの海路を探す必要があった。  

 二.宗教の活性化について。修道会もフランシスコ派、ドミニコ派などの新しいものが出現し、イスラム教徒と戦い、異教徒をキリスト教に改宗させたいローマ教皇の望みがあった。

 三.科学技術の発展。地理研究も向上し、舵の発明、羅針盤の使用とともに航海術も発展したので、沖合いに出ても船を制御することができるようになった。

 以上のほかにポルトガルを海外発展させた主な国内要因としては以下の点が考えられている。

 一.ポルトガルの位置する地理について。ヨーロッパ大陸の最西端に位置するポルトガルは大西洋と地中海の接点にあり、しかも大西洋に進展しやすい。大西洋に流れるテージョ川の河口は大きく膨らんでおり良港である。

 二.ポルトガルの政治状況について。一二世紀に独立したポルトガルは、一四一一年の和平条約によって独立を確固たるものにした。その後、精力的に国力を高め国威を発揚するポルトガル国王が模索したことは、イベリア半島のスペインの方向に進展できないので海を活動の場所とした。

 三.宗教的熱意について。ポルトガルは建国以来、イスラム教徒を追い払いながら南部のアルガルヴェ地方も征服した。その後、すでに見てきたように、まだイベリア半島に残存しているイスラム勢力を封じるためにサラードの戦いで勝利し、グラナダのイスラム教徒を放逐するために遠征隊を派遣した。キリスト教を広めることはポルトガルの建国当初からの理想であり、ポルトガル人を征服と発見へと導かせた。ジョアン一世の息子エンリッケ王子やポルトガルの諸国王は、海外発展事業において「デウス(神)のために」をいつも掲げていた。

 四.ポルトガル諸国王の海軍の政策について。ポルトガル建国以来、諸国王その中でも特にディニースとフェルナンド国王は海軍を保護して発達させてきた。すでに見てきたように国王ディニースはジェノヴァ人マヌエル・ペッサーニャを海軍総督として契約した。アフォンソ四世はカナリア諸島へ二度にわたり遠征隊を派遣した。フェルナンドは造船を奨励し海上保険をつくった。このような国王の政策によりポルトガルの船団は非常に高名になり、大航海時代の幕開けとされる一四一五年のセウタ攻略のときには二〇〇隻以上の船が参加した。

 五.航海術について。ポルトガルの船が海外発展するには、当然のことながら数学や天文学などの科学の知識が貢献することになった。緯度測定の問題は、天体観測器アストロラーベと四分儀によって解決された。大航海時代初期においては、軽快な帆船カラヴェーラが採用され、後には大型帆船ナウが使用された。ポルトガル人技術者と船乗りたちこそが航海術を向上させて、実際に大航海時代(海外進出)を幕開けさせたと言える。

 すでに述べたことだが、大西洋のカナリア諸島は一四世紀にアフォンソ四世が遠征隊を派遣して以来、その存在がポルトガルに知られている。ジョアン一世の治世、北アフリカのセウタを攻略した一四一五年、エンリッケ王子の命令によって貴族ジョアン・デ・カストロが率いる艦隊がカナリア諸島に派遣されたという歴史家がいる。一四二一年、ポルトガル艦隊はカナリア諸島の様々な島を占領した。しかし、一四六六年、カナリア諸島は、カスティーリャが領有することになった。

セウタ攻略については、すでに言及してきたが、もう少し詳しく述べておきたい。北アフリカのセウタは、その地理的状況により、戦略的・商業的に非常に重要な地点であった。一四一五年、ジョアン一世がセウタ攻略を企てると、騎士であったドゥアルテ王子とエンリッケ王子が参画したのだった。

セウタ攻略の要因としては、以下の三つがあげられる。一.宗教的要因。ポルトガルは建国以来、「神のために」イスラム教徒と戦い続け、真のキリスト教十字軍であった。それが海に出たものであった。二.軍事的要因。地中海に出没して恒常的にポルトガル貿易船の航行を脅かしていたモロッコの海賊を制圧するため。三.経済的要因。セウタは繁栄した商業の中心地であったので、ポルトガルの商業網を拡大するため。

セウタ攻略の結果は、期待したようなものではなかった。戦闘の果てにセウタの街は経済的に衰退し、商業の中心地としての役目を果たせるような状態ではなかった。しかし、セウタ攻略によってポルトガルがジブラルタル海峡を支配するようになり、北アフリカとイベリア半島のイスラム教徒の勢力を弱体化させることになった。

そして、エンリッケ王子は、交戦時に捕らえたアラブ人やユダヤ人の捕虜からアフリカ南部などの多くの情報を得たので、更に海外に進出する貴重な動機になったと言える。

 ポルトガルの海外進出を推進したのは、ジョアン一世の三男エンリケ王子である。後に、「航海王子」と称された。王子自身が航海に出たのではなく、モロッコに遠征隊を送り、ポルトガルの海外進出を進めたことによる。ジョアン一世、ドゥアルテ、アフォンソ五世などのポルトガル国王も、拡張主義のイデオロギーで海外進出を進めたのでエンリケ王子が後継して発展させたのである。到着した土地の確保、領有権、商行為などの様々な面においてポルトガルが有利になるように進出を続けた。

 

アフリカ沿岸への進出

 一四三四年にジル・エアネスが、アフリカ北西部ボジャドール岬Cabo Bojadorに到達すると、更に南下し一四三五年にはジル・エアネスとバルダイアの二人がアングラ・ドス・ルイヴォスAngra dos Ruivosに、一四三六年にはバルダイアがリオ・ド・オウロRio do Ouroからペドラ・ダ・ガレーPedra da Galéまでのアフリカ沿岸を偵察した。

 一四四一年にはヌーノ・トゥリスタンがブランコ岬Cabo Brancoに到達。一四四三年にはヌーノ・トゥリスタンがアルギンArguimからガルサスGarçasまでの沿岸を偵察した。

 一四四四年にはランサロッテが更に南下してナアル・イ・ティデールNaar e Tiderにたどり着いた。同年、ヌーノ・トゥリスタンがセネガル川河口付近テーラ・ドス・ネグロスまで南下した。また、同年ディニース・ディアスがヴェルデ岬Cabo Verde(カーボ・ヴェルデ諸島ではない、セネガル川の南にある岬)とパルマス島Ilha das Palmasに到着した。

 一四四五年にはフェルナンデスがマストロス岬Cabo dos Mastrosまで南下した。このように、一四三四年から一四四五年にかけて、ほぼ毎年偵察の艦船がポルトガルを出発してアフリカ沿岸を南下していたのである。

 

エンリケ王子の性格

 年代記編者アズララは、「ギネーにおける偉業の年代記」Crónica dos feitos da Guinéの中でエンリケ王子の熱望について記している。異教徒をキリスト教に改宗させる意図、経済的利益、科学的興味があった。当時の精神的、物質的な問題をよく理解し、ポルトガルの海外進出を積極的に導いた。

 エンリケ王子は地理学者でも地図製作者ではなかったが、海外の地理に関心を抱いて偵察艦隊を派遣した。宣教師ではなかったが異教徒をキリスト教に導くように促進した。十字軍の戦士ではなかったが、セウタ攻略を成功させ、タンジェール攻略さえも試みた。商人でも経済学者でもなかったが、海外の商業地開拓を行い、商品の交易を行った。このように、エンリケ王子には多面な才能があった上に、優秀な地図製作者や天地学者を選抜し、彼らに研究させ、エンリケ王子自身がポルトガルの海外進出に君臨した。

 

エンリケ王子の目論みと地理

 一四一五年のセウタ攻略が成功したことは、エンリケ王子の拡張主義を更に発展させるものであった。ジブラルタル海峡でのイスラム教徒の海賊行為を制御し、小麦の最大の供給地であるセウタを掌握したので、モロッコ攻略も企んだ。もともと、モロッコ攻略はカスティーリャの固有の権利とされていたのだった。また、アフリカにおける異教徒をキリスト教に導きながら、ヨーロッパを潤すことになる金や他の産物を獲得できるとの野望を抱いた。いずれにしても、アフリカと沿岸の島々は、海外進出初期におけるエンリケ王子の拡張主義の羨望の的であった。

 アフリカだけを手中にすることだけを目論んでいたのか、それとも東洋に到達するための経由地とみなしていたのであろうか?この問題は論争となってきたが、未だに決定的な結論は得られていない。インドに到達すると、そこにはキリスト教徒がいるとの曖昧な情報に心を動かされていたことは否めない。インドにたどり着くというロマンを抱き続け、実際にポルトガル人がインドに行けば、正確な外部世界が理解できるとの冒険心と好奇心があった。インド洋が湖のように描かれており海路では行けないプトレマイオスの地図に現れていない島や大陸があるのかもしれないので、ポルトガル船を偵察に出発させた。大西洋西部に大陸(ブラジル)がある可能性を夢想していた訳である。

 

エンリケ王子とサグレス

 ポルトガル南部アルガルヴェ地方西端に位置するサグレスには航海学校があったといわれてきたが、実際には存在しなかった。科学者と知識人の集まりは散発的なものであった。科学的調査によると居住するスペースがなく、興味ある人びとの間で経験や知識の交換がなされていた。もしもこの種の学校が存在するのであれば、サグレス東部に位置するラゴスである。サグレスは断崖絶壁の場所で、船が出て行けるような条件はない。

 

大西洋の島々 カナリア、マデイラ、アソーレス

 十五世紀初頭、カナリア諸島とマデイラ諸島の存在は知られていたので、ポルトガルにとって、このふたつの諸島にたどり着くことが初期の目的であった。まず、マデイラ諸島を植民し、西に向かってアソーレス諸島を植民することが関心事項であった。

 

マデイラ諸島

 一四一九年、ポルトガルの艦船が偵察を行い、ポルト・サント島を占有した。翌年にはマデイラ島を占有し、偵察者らが農業を行い始めた。植民に関しては一四二五年に始まった。

 ジョアン・ゴンサーロ・ザルコとトゥリスタン・テイシェイラがモロッコ攻略に出陣したとき、嵐によって大西洋を西に流されたためにポルト・サント島に到着した。その後、エンリケ王子にポルト・サント島のことが報告されると直ちにバルトロメウ・ペレストレーロが率いる艦隊を出発させた。農業を行ったものの、大量のウサギが畑を荒し、入植者らは近くのマデイラ島に移り、バルトロメウ・ペレストレーロはポルトガルに帰った。マデイラ島では農業が発展したので、聖職者を含める植民が本格化した。

 

アソーレス諸島

 十六世紀の地図にはよく描かれているマデイラ諸島とは違って、小さな点のような島がマデイラ諸島の北部に描かれた程度だった。実際はマデイラ島の北西部に東西に広がる三つの諸島がアソーレス諸島である。海外進出が本格化するまでは、アソーレス諸島は想像上の島であったので、十五世紀にポルトガル人が東部と中部グループ(サンタ・マリーア、サン・ミゲル、テルセイラ、グラシオーザ、サン・ジョルジェ、ピコ、ファイアル)を発見するまでは、正確な位置がわからなかった。後に発見されるフローレス、コルヴォの二島とあわせて九島から構成される。

 エンリケ王子が修道会長であったキリスト軍事修道会聖職禄受給者ゴンサーロ・ヴェーリョ修道士が一四三一年から一四三二年の間に発見したとされている。しかし、地図製作者ヴァレスカによる一四三九年の地図に始めて描かれた。

 アソーレス諸島の発見については、海流の関係からポルトガルから出発して西に航行して後に発見するのは無理であり、マデイラ諸島かカナリア諸島からポルトガルに帰還するときに偶然発見に至ったとされている。

 当時のポルトガルにとって、マデイラ諸島がアフリカ沿岸への橋頭堡であるとすれば、アソーレス諸島はアメリカ大陸北部への橋頭堡として存在することになった。

 

 

 

 

第三章 エンリケ王子の時代におけるアフリカ大陸西岸の発見

 

ボジャドールからペドラ・ダ・ガレー

 アフリカ大陸西岸ナン岬まではポルトガル人によって知られていたが、そこからボジャドール岬までは未知のことであった。地中海貿易に携わった商人たちが、アフリカ大陸西岸の情報をエンリケ王子にもたらし、実際にボジャドール岬に到達してみたいという冒険心があった。荒波と岩礁が何キロも続く沿岸にあるボジャドール岬に到達することは困難なことであった。一四二六年、ゴンサーロ・ヴェーリョ修道士がボジャドール岬とグエール岬の間まで到達した。その後、一四三四年、ジル・エアネスがボジャドール岬を迂回した。その証拠にアフリカ大陸沿岸でもボジャドール岬よりも南に生息する野生のサンタ・マリーアのバラを持ち帰った。

 二年後の一四三六年には、ペドラ・ダ・ガレーまでアフォンソ・ゴンサーロ・バルダイアがアフリカ大陸沿岸を南下した。このことにより、五百キロにわたるアフリカ大陸西岸の地図製作がより精度の高いものになり、発見者らが名付けた地名が地図に現れることになった。アングラ・ドス・ルイヴォスAngra dos Ruivosは後にAngra de los RuivosとかGarnet Bay、リオ・ド・オウロRio do Ouroは後にRio del Oro、そしてペドラ・ダ・ガレーPedra da Galéは後にPedra de la Galéaなどと呼ばれるに至った。

 

ペドラ・ダ・ギネーからヴェルデ岬

 結果としては敗戦したのだが、一四三七年のタンジール攻略作戦のために、アフリカ沿岸探検は中断された。一四三八年には、人質となったフェルナンド王子の解放のためにセウタ返還問題とドゥアルテ国王が死亡した。一四三九年から一四四〇年までの王位継承問題。これらの国内問題から、アフリカ沿岸探検が進展しなかった。

 一四四〇年になって、ようやくアフリカ沿岸探検のことが再び考え始められた。ジル・エアネスがバルカbarcaと呼ばれる船、バルダイアがヴァリネルvarinelと呼ばれる比較的小さな帆船で航海していた。それらは、重く、帆も少なく、一本か二本のマストしかなかった。更に改良を加えられて誕生したのがカラヴェーラcaravela船である。重さとマストを革新させ、全長が長く、二本のマスト、後に三本のマストを備えた。あらたに考案された三角形の帆は大西洋の風や波にしたがって制御しやすくなった。マストは風を受けやすく、スピードを出せた。「ギニアからの帰還航路」として有名になったルートは、このカラヴェーラ船のおかげで開拓できた。それまでは沿岸航海といって、沿岸が見える範囲内の沖合を風に乗って南下し、逆風の中をポルトガルに時間をかけて帰還した。しかし、ギニアからカナリア諸島の沖合に出て、アソーレス諸島近くに行き、そこからポルトガルに向かう風に乗って帰還することができるようになった。

 一四四一年、ヌーノ・トゥリスタンがアンタン・ゴンサルヴェスを従えてリオ・ド・オウロよりも南下して数十人の先住の人びとを捕獲して、そこをポルト・ド・カヴァレイロと名付けた。エンリケ王子はアフリカ沿岸に住む人びとに興味を持っていたので、捕獲する指令を出していた。そこで、アントン・ゴンサルヴェスはポルトガルに帰還し、ヌーノ・トゥリスタンは更に沿岸を探検しながら南下し、岬に到達した。そこをブランコ岬と名付けた。二年後の一四四三年、ヌーノ・トゥリスタンは更に南下し、アルギン湾に入り込み、数個の島々を発見した。その頃から探検のペースが早まり、一四四四年には、ランソロッテがアルギン湾に入り、更に南部の他の島々を発見した。同年、ヌーノ・トゥリスタンは三回目の探検においてセネガル湾河口テーラ・ドス・ネグロスに到達した。セネガルではヤシの木、緑の樹木がたくさんあり、それまで南下してきたモーリタニア周辺の乾燥地帯とは違うことがわかった。

セネガンビア、ギニア(ギネー)、セーラ・レオア

 一四四四年、ディニース・ディアスがヴェルデ岬に到達すると、翌年アルヴァロ・フェルナンデスがヴェルデ岬を超えて、マストロ岬(後のRed Cape)に到達した。同年、ゴンサーロ・ヴェーリョと六人の随人が、アルギン湾で先住の人びとの捕獲作戦中に抵抗にあって死亡した。

 一四四六年、ヌーノ・トゥリスタンが更に南下して、多くの随員とともに湾から小舟に乗って上陸を試みていたところ、多数の先住民の抵抗に遭遇し、矢が刺さって死亡した。どこの湾に停泊していたのかは論争があるが、サルンSalumが有力である。ポルトガルはこの悲劇にもめげず、一四四六年、アルヴァロ・フェルナンデスがギニア北部に到着した。

 この時期には、すでに到達した地域に商業目的で多くの商船が出発していた。一四五六年、ギニア湾に流れ出る複数の川をカラヴェーラ船が遡り、商品を積んでいた。ペドロ・デ・シントラはアフリカ大陸沿岸探検を続け、ギニア湾地域のジェバ川からセーラ・レオア(シエラ・レオネ)まで到達した。

 

カーボ・ヴェルデ諸島

 カダモストは、一四五六年の探検においてカーボ・ヴェルデ諸島を発見した。一四六〇年、ディオゴ・ゴメスがアフリカ沿岸からポルトガルに帰還する途中に立ち寄った。

 

アフリカ沿岸とギニア湾の島々の発見

 セーラ・レオアよりももっと南のリベリアの首都モンロヴィアにあるムスラド岬南方二十キロにあるジェバの入り江まで、ペドロ・デ・シントラが探検した。ジェバの入り江はそれまでサンタ・マリーアの森と呼ばれていた。一四七一年、ジョアン・デ・サンタレン、ペロ・エスコバールが指揮する艦隊がギニア湾北部に到達し、サマと呼ばれた内陸部から金が運ばれてくる村をミナ・デ・オウロと名付けた。後には単にミナとされた。彼らは、サン・トメーとサントアンタン(プリンシペ)も発見した。更に南下して岬を発見者の名前をとってロペス、もうひとつの岬は聖カタリーナの日にちなんでカタリーナ岬と名付けられた。

 

西方への空想と伝説

 ボジャドール岬とヴェルデ岬からアソーレス諸島の方向に向かえば、空想上のアメリカにたどり着くのではないかと思われ始めた。

 また、一四五二年、ディオゴ・デ・テイヴェがアソーレス諸島ファイアル島から西に出発し、コルヴォ島とフローレス島を発見した。このことから、西方への夢が更に膨らんだ。ヴィセンテ・ディアスはアフリカからポルトガルに帰還する途中にマデイラ島の西方に島がないか探索したが無駄だった。

 

 

 

第四章 ギニア湾からインド洋へ

 

ギニア湾問題とスペイン・ポルトガルの海上活動範囲の分割

 一四七四年、国王アフォンソが、王位を継承する十九歳の息子、将来のジョアン二世に対し、ギニアをはじめとするアフリカ沿岸の発見された土地の支配を含めて、ポルトガルの海上活動指揮権を移譲した。

 フェルナン・ゴメスが発見したギニア湾のミナでは金が得られるとの知らせから、スペインとポルトガルのライバル関係が再燃した。スペインもポルトガルもアフリカの土地を巡って艦船を派遣し戦争も辞さない勢いだった。

そこで、一四七九年九月四日にポルトガルから条約締結を申し出て、翌年一四八〇年三月六日にカトリック両王が批准した。ポルトガルは、アソーレスとマデイラの両諸島を領有するかわりに、スペインのカナリア諸島領有を認めた。スペインは、ポルトガルのアフリカにおける支配、以後発見される土地においても商業の独占を認めることになった。

 一四八一年六月二十一日、ローマ教皇大勅書によって、スペイン・ポルトガルの間の海上活動範囲の分割が確認され、一四五四年から一四五六年の間にポルトガルが行ったアフリカ進出と支配を認められた。同年、ジョアン二世は、父親の国王が死去すると、商業の重要拠点であるギニア湾のミナに要塞と商館を建設して、認められた独占を強化することにした。一八四二年初頭に完成したミナ要塞は、ポルトガルから送られた材料で強固に建設された。このような要塞と商館を建設することは、ポルトガル艦船の補給を容易にし、アフリカ南部への進出拠点として、インドに到達するというジョアン二世の欲望を如実に表したものである。

 

コンゴとアフリカ南部への進出

 ジョアン二世は、未発見のアフリカ南部へ進出させることをディオゴ・カンに命じた。愛国心に満ちあふれたディオゴ・カンは、ギニア湾警備隊指揮官として、一四八〇年一月六日にミナに出現して金の交易をしたスペイン船を拿捕した経験があった。ディオゴ・カンは、ポルトガルの到達地点と支配を堅持する石標パドランを積み込んで、一四八二年の春にリスボンのテージョ川を出発した。赤道を通過して、Serra da Praia Formosa de S. Domingos(現在のLandana)、Ponta da Barreira Vermelha(現在のMolembo)、ザイールまで到達した。そこの川をポデローゾ川と名付けた。ディオゴ・カンは、ポルトガルの存在の優先を示して河口南部に最初のパドランを設置し、更に南部に進んだ。(このパドランは一八五七年にリスボン地理協会がポルトガルに持ち帰り、現在は海洋博物館に展示してある。)Angra de Santa Maria(現在のBenguela)に到着したディオゴ・カンは、そこから百五十キロほど南部のCabo de Santo Agostinho(現在のCabo de Santa Maria)に二つ目のパドランを設置した。

 ディオゴ・カンがポルトガルに帰国すると、ジョアン二世がその偉業を讃えた。一四八五年の夏、ディオゴ・カンは再びアフリカに出発し、アンゴラ沿岸を南下し、Cabo NegroとCape Crossの二カ所にパドランを設置した。帰路にザイール川河口に立ち寄り、そこからコンゴに入った。コンゴの国王はポルトガルに使者を送り、キリスト教布教のための聖職者、ポルトガルと同じ建築物を建設するために大工と石職人、コンゴの人びとに料理を教える料理人の派遣を要請した。

 

南西への海路の発見(喜望峰の迂回)

 一四八六年以降、ディオゴ・カンの名前が史料に出てこない。途中で死亡したのか、強制的に歴史的に匿名扱いされたのか明らかでない。ジョアン二世はその後、東洋に通じる海路を発見させる後継者にバルトロメウ・ディアスを選んだ。一四八七年八月に、バルトロメウ・ディアスが指揮する三隻の艦船が出発した。そのうち一隻は補給船であり、南下して行く途中で停泊して、残りの二隻の帰還を待つことになっていた。ディオゴ・カンが二回目の探検での限界地であったSerra Pardaを通過し、一四八七年十二月四日に南下した地域をTerra de Santa Bárbaraと名付けた。

 徐々に南下して、Angra das Voltas(Luderitz Bay)に補給船を残して、一四八八年一月六日に、Serra dos Reis(Cardow Berg)に到達した。その頃、南東の貿易風が強まったので、沿岸から離れて南西に航行した。数日後、南西の風を見つけて東に向かい、アフリカ沿岸に近づこうとした。数日後、陸地が見えなかったので、北に進路を変えるとアフリカ南部沿岸を遠くに見た。そこは、最南西部をはるかに超えていた。Rio das Vacas(Goritz River)に立ち寄った。そこから南に陸地は延びておらず、北に向かい、Baía de S. Brás(Mossel Bay)、Cabo de Arricife (Cape Recife)、Angra da Roca (Algoa Bay)、を通過し、Porto Elisabethの街から北北東に陸地が延びていた。補給船も遥か後方に残し、船員の間では不安感がつのったので、引き返すことにしたが、その前にFalse Islandにパドランを設置し、Penedo das Fontes (Foutain Rock)とRio do Infante (Great Fish River)に到着した。バルトロメウ・ディアスは、インドへ海路で到達できると予想したが、他の船員が帰還したがっていたので、インド行きは他に任せることにした。

 往路で沖合を通過したので、帰路にすでに通過していた沿岸に接近し、サン・ブラス湾西側(Ponta de S. Brandão)やCabo da Boa Esperança(喜望峰)を探検した。そこから大西洋に戻り、北に進路をとり、Angra das Voltasで補給した。ポルトガル帰国は一四八八年十二月だった。

 

インド地方の調査

 ポルトガル国王ジョアン二世は、大西洋からインド洋に行けるかどうかという可能性の他に、ポルトガルが進出する土地における政治、商業の正確な情報も得たかった。エンリケ王子の時代から、プレステ・ジョアンが支配する国エチオピアが存在するのかどうかは関心事項だった。

 そこで、一四八六年末、ジョアン二世は、地中海からパレスチナに向けて二人の修道士アントニオ・デ・リズボアとペドロ・デ・モンタロイオを派遣し、友好を深めた上で情報を得て、エチオピアに向かわせる目的であった。しかし、アラビア語の知識がない二人は溶け込めなくて、ポルトガルに帰国した。

 その後、一四八七年五月七日、ジョアン二世はアフォンソ・デ・パイヴァとペロ・ダ・コヴィリャンを陸路で偵察に出発させた。二人は地中海沿岸に沿って進み、ヴァレンシアからバルセロナまで船に乗った。そこから、ナポリを経てRodes島に行き、商人に扮装してそこから更にアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアからカイロに行き、スエズを通って紅海に出た。アデンから二人は別れて、ペロ・デ・コヴィリャンはインドに、アフォンソ・デ・パイヴァはアビシニア(エチオピア)に向かった。

 ペロ・デ・コヴィリャンは、カナノールに上陸し、そこからカレクット、ゴアを訪れて、ホルムズに戻った。イスラム教徒の商人の船の往来を調査し、インド洋にポルトガルの艦船が入った場合、安全にインドに向かうアフリカ沿岸の港はソファラであることがわかった。

 一四九一年の初頭、ペロ・デ・コヴィリャンがカイロに戻ると、アフォンソ・デ・パイヴァが死亡していた知らせを受けた。そこで、ジョアン二世は、二人が心配になり使者を送ってきていたので、ペロ・デ・コヴィリャンは自分が得た情報をジョアン二世に与えようと、地図と書簡を使者に託して帰国させた。ペロ・デ・コヴィリャンはエチオピアに行き、二度と戻ってこなかった。

 

艦船の問題

 アフリカ大陸東岸を北上し、ソファラに到着後、インドへ向けて東に向かう時には偶発的に出会った海賊船と闘う必要があった。またバルトロメウ・ディアスが喜望峰を迂回したときには、補給に関する問題点もでてきた。このふたつの問題を解決するための艦隊の能力の向上が必要となり十隻以上から構成される大艦隊の計画が浮上した。また、喜望峰迂回前の補給地点としての大西洋南部の偵察を進める必要もあった。

 

 

 

 

第五章 インドへの海路での到達とブラジルの発見

 

 ジョアン二世が死去すると、次の国王マヌエルは海外進出計画を受け継ぎ、インドへ海路で進出する準備を始めた。ジョアン二世は、生存中にヴァスコ・ダ・ガマを艦隊司令官に選任し、艦船もより強大なものを建造することを計画していた。それまでのカラヴェーラ船とは違い、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる艦隊は、大型のナウ船から構成された。三本のマストがあり、大砲などのより多くの武器を積むことができた。カラヴェーラ船も同行したのだが、補給艦としての役目を担い、補給が終わると解体されることになった。

 一四九七年七月八日にリスボンのテージョ川を出発したヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は、カーボ・ヴェルデ諸島サンティアゴ島に寄航した。八月五日にそこを出航すると、バルトロメウ・ディアスの艦船がミナに向かって先導した。そして、単独でアフリカ沿岸を南下し、十一月日の喜望峰手前のサンタ・エレーナ湾で投錨した。数日後に出発し、喜望峰を迂回し、アフリカ大陸東岸のサン・ブラス湾に到着すると予定通り補給船を取り壊し、乗組員は別の船に移った。そこで、ヴァスコ・ダ・ガマは十二月六日にパドランを建てたが、翌日艦隊が出発すると先住民がすぐに破壊した。

 インド洋に入ってインファンテ川を超えると、それまで知られていなかったモザンビークの海流に悩まされ、後退することもあった。しかし十二月二十五日、テーラ・ド・ナタルに到着した。更に沿岸を航行しながら一九四八年三月二十二日にはモザンビークのザンベジに、四月七日にはモンバサに到着した。ザンベジとモンバサにおいては先住民の抵抗を受けて、艦隊が危険であったので、ヴァスコ・ダ・ガマはインド洋において始めて大砲を放った。四月十四日、艦隊はメリンデに到着し、メリンデの首長から厚遇され、忠実で博学な水先案内人の提供を受けた。艦隊は、水先案内人とともにアフリカからインドを目指してインド洋を渡り、五月二十日にカレクットに投錨した。そこで、ヴァスコ・ダ・ガマは首長サモリンと数カ月に亘って交渉した。

 ポルトガル人は、最初は友好的に扱われたが、東洋における自らの商売が危険になると思ったイスラム教徒の商人らの陰謀に影響されたサモリンは敵対的態度をとりはじめた。結局、もっと強いポルトガル艦隊が必要と確信したヴァスコ・ダ・ガマは帰還する決断をした。帰路、インド洋の凪、逆風に悩まされ、更に壊血病で乗組員の多くが死亡した。インド洋上に三カ月も漂い、一四九九年一月、ようやくメリンデに到着した。ポルトガルのリスボンに帰還したのは同年の夏のことで、マヌエル国王はインドに海路で到達したヴァスコ・ダ・ガマを大喜びで迎え入れた。

 

ブラジルの発見

 一四九九年の夏にヴァスコ・ダ・ガマが帰還した後、マヌエル国王は第二回目のインド行き艦隊の派遣を直ちに決断した。軍事的に更に強大で十三隻から構成される艦隊が、ヴァスコ・ダ・ガマの小規模の艦隊が勝ち得なかったインドでの政治と商業の確立を目指した。航海に長けたものでなく、軍事的、外交的才能のあるペドロ・アルヴァレス・カブラルが司令官として選抜された。

 リスボン出発は一五〇〇年三月八日に予定されていたが、翌九日まで遅れた。五日後に艦隊はカナリア諸島を通過し、二十二日にはカーボ・ヴェルデ諸島サン・ニコラウ島に停泊した。そこで、水の補給をして、アフリカ沿岸から大きくはなれ、ヴァスコ・ダ・ガマのインド行きのときのように風に乗ってそのまま喜望峰を迂回する予定であった。大西洋を南西に大きく向かっていたときにブラジル沿岸に到着した。四月二十一日、海藻が海面に浮いているのが見られた。翌日、鳥が海上を飛んでいた。これらの現象は、陸地があることを思わせるものである。そして一五〇〇年四月二十二日夕方、西方にブラジルの陸地が見えた。ペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊の書記官ペロ・ヴァス・デ・カミーニャは、マヌエル国王宛の報告書に次のように書いている。「今日の夕刻、私たちは陸地を見ました。最初は、とても高い山、南に向かってより低い山脈、木々がよく茂った平地でした。司令官はその山をモンテ・パスコアルと、陸地をテーラ・デ・ヴェラ・クルースと名付けました」。

 日が沈んでから、慎重に沖合に投錨した。翌日になって、小舟を先頭に岸に接近すると、先住民がいたので接触を試みたが通じなかった。四月二十四日金曜日の朝、艦隊は北に向かい良い停泊地を探した。広大な岩礁に守られた良い港があり、カブラル湾Baía Cabráliaと現在は呼ばれている。二十六日日曜日、ブラジルで初めてのミサを祈り、木製の十字架を建立した。先住民もポルトガル人を真似て祈り、友好を確立した。五月二日、陸地の発見を知らせるために一隻をリスボンに帰還させて、艦隊は喜望峰を目指して出発した。

 艦隊の中の一隻はカーボ・ヴェルデ諸島の海域で遭難し、もう一隻はリスボンに帰還させたので、合計十一隻がインド行き艦隊として構成されることになった。喜望峰沖合では激しい嵐に遭い、ディオゴ・ディアスが船長の船は嵐に翻弄されながら流された結果、マダガスカルを発見するに至った。その後、単独で紅海に行き、アフリカ沿岸を周り、カーボ・ヴェルデ諸島に立ち寄ってポルトガルに帰還した。結局、六隻がインド洋に入り、ヴァスコ・ダ・ガマが滞在したアフリカ沿岸にも立ち寄りながら、インド洋を横断してカレクットに到着した。将来的に、平和的にも、交戦してでも商館を建設して商業網を確立したかったが、カレクットに関しては無理だった。後にコーチンCochimに交易所が設置されるに至った。帰還の途中、ソファラに停泊し、その地域の商業について調査させるために一隻を残した。船は分散して帰還することになり、一五〇一年春から夏にかけてリスボンのテージョ川にそれぞれ入港した。

 

 

 

 

第六章 大西洋北部、アメリカ北部、ブラジルへの進出

 

 十世紀の終わり以来、ノルマンディーやアイスランドの人びとの植民地があったが、それから四世紀後に消滅し、西ヨーロッパの海洋国家の羨望の的であった。

 一四九五年、または翌年の一四九六年、アソーレス諸島テルセイラ島の住民で、Lavradorラヴラドール(耕作者)のあだ名をもつジョアン・フェルナンデスが、ペドロ・デ・バルセーロスとともに大西洋北部を航行し、グリーンランドに到着しTerra de Lavradorと呼ばれた。その後、Lavradorという土地の名前は北米大陸(カナダ北東部)に移された。

 一四九七年と一四九八年に、ブリストルのイギリス人に仕えたヴェネチア人ジョアン・カボトが発見している。しかし、十六世紀前半にスペイン語で書かれた著者不明の手紙には、「ブリストルのイギリス人によって発見されたTerra de Lavradorは、アソーレス諸島のlavradorがその島の存在を知らせ、名前がついた」と記している。

 

テーラ・ノーヴァTerra Nova(カナダ東部の島)

 一五〇〇年五月十二日、マヌエル国王は、テルセイラ島世襲領主ジョアン・ヴァス・コルテ・レアルの三男ガスパール・コルテ・レアルに対して、大西洋北部の偵察航海を命じた。鬱蒼とした緑の木々に覆われ、人が住んでおり、漁業が盛んであったと描写された。

 

ブラジル、アメリカ北部への進出

ブラジル北東部と東部地域

 カブラルが実現したブラジル発見時の沿岸部を表わす最も古い地図は、イタリア人カンチーノのものである。彼は秘密裏にそれを入手して、一五〇二年十一月19日までにジェノヴァに持ち帰った。後には匿名ポルトガル人の地図として知られた。カブラルが到着したポルト・セグーロのほか、南部へ偵察したことがわかる地名サン・ミゲル、リオ・デ・サンフランシスコ、バイーア・デ・トードス・オス・サントス、リオ・デ・ブラジル、カーボ・デ・サンタ・マルタなどが表れていた。

 カーボ・デ・サン・ジョルジェはブラジル北東部の地名である。カブラルの艦隊がポルト・セグーロに到着してリスボンの国王にブラジル発見の知らせをするためにガスパール・レモスの艦船を帰還させたときの沿岸偵察の結果である。または、一五〇一年三月上旬にリスボンを出航して一五〇二年九月十日に帰還したジョアン・ダ・ノーヴァが指揮する第三回目の艦隊がブラジル北東部を偵察したときの情報の可能性がある。

 一五〇一年から一五〇二年の間の偵察、つまりサン・ミゲルは九月二十九日、サン・フランシスコは十月四日、バイーア・デ・トードス・オス・サントスは十一月一日、サンタ・マリーアは二月二十三日というように、司令官がいなかったような特別に準備された艦船で実施に至った可能性が高い。偵察にはアメリゴ・ヴェスプッチのような優秀な天地学者も参加していた。

 ロレンツォ・デ・メディチに宛てた二つの書簡がある。ひとつめのものは、一五〇一年六月四日にカーボ・ヴェルデから出されており、五月十三日に出発してどこにも寄航せずに艦船が到着したことを知らせている。七月二十二日から十月中旬の間にリスボンで書かれたもので、そのとき、ヴェスプッチはセヴィリアにいたのだが、動物や植物や人びとについて詳しく報告してブラジル沿岸を偵察したことを物語っている。

 この偵察艦隊の後、一五〇二年にマヌエル国王は、ブラジルで産出される品々を探索するように豪商フェルナンド・デ・ノローニャなどに命じた。六隻からなる艦隊を毎年ブラジルに派遣し、沿岸を三百レグアにわたって偵察することが義務付けられた。最初に派遣された艦隊だけが記録に残っている。一五〇三年六月十日、ゴンサーロ・コエーリョが指揮する艦隊がテージョ川を出発した。艦隊は遭難して六隻のうち二隻だけが帰還した。後に完成した地図から判断すると、商業的であると同時に偵察も兼ねた艦隊によって現在のサン・パウロ州のあたりまでの南東部地域までも航行した。

 

ブラジル北部

 アングラ・ド・サン・ロッケよりも西にあるブラジル北部に向けての偵察に関して、マヌエル国王宛の一五一四年にエステヴァン・フロイスの書簡がある。彼はスペインのアメリカ領において偵察をしたことを理由に、エスパニョーラ島で捕えられた。ポルトガル王室の命令により、赤道より百五十レグア南部の土地を偵察していたディオゴ・リベイロは先住民に殺されていたので、恐怖心から海上航行をしてスペイン領に入ってしまったのだった。しかし、この書簡から現在のマラニャン州東部地域を偵察していたことがわかる。

 

アメリカ北部

 一五一九年頃、テーラ・ノーヴァの南部地域にあるサン・ロウレンソ湾をジョアン・アルヴァレス・ファグンデスが訪れた。一四九四年のトルデシーリャス条約によるポルトガル勢力権において、大西洋北部にまだ未発見の土地がある可能性を排除しなかった。

 

大西洋中部、南部の島々の発見

 すでに述べたように、インドに到達するにはカーボ・ヴェルデ諸島からブラジル近海に向かい、そこからアフリカ南部へ向かう風に乗って、一気に喜望峰を迂回するのがインド到達のための航路であった。その過程において、ポルトガルは・大西洋南部に散らばる島を発見することになった。

 

アセンサン(アセンション)、サンタ・エレーナ(セント・ヘレナ)、トゥリンダーデ

 アセンション島が最初に発見され、その南東二十万二百キロ行ったところに、ナポレオンがイギリス亡命を拒否されたので流刑地として閉じ込められたセント・ヘレナ島がある。歴史家ジョアン・デ・バロス、ダミアン・デ・ゴイスらは、ジョアン・デ・ノーヴァの艦隊がインドから帰還する途中で、一五〇二年四月十五日にセント・ヘレナを、五月五日にアセンションを発見したとしている。一五〇二年五月十八日、エステヴァン・ガマがブラジル沿岸のトゥリンダーデ島を発見した。

 

トゥリスタン・ダ・クーニャ島

 一五〇六年の春、トゥリスタン・ダ・クーニャのインド行き艦隊がリスボンを出発し、通常の大西洋航路を進むところを西にそれた。そこで同年十月中旬にトゥリスタン・ダ・クーニャ島を発見したが、日曜日だったとしか伝えられていない。小さな無人島が周囲にある。

 

ゴフ島Gough Island

 十六世紀の地図には発見者の名前からゴンサーロ・アルヴァレスとして出ている。しかし現在までデォオゴ・デ・アルヴァレス島として出てくるが、一五〇五年にソファラに派遣されたペロ・デ・アナイアが指揮する艦船で、ゴンサーロ・アルヴァレス、最初に同島を視認した。

 

サン・ペドロ諸島

 一五一一年四月、ガルシア・デ・ノローニャが指揮する四隻からなるインド行き艦隊は大西洋で西に行き過ぎ、ブラジル沿岸で喜望峰へ向かう風に乗ることができなかった。喜望峰に向かう風を探しているときに、最初に航行していたサン・ペドロ号が同諸島を発見した。人が住める環境ではなく、現在はブラジル海軍基地がある。

 

 

 

 

第七章 インド洋と太平洋

 

 ポルトガルの海外進出が始まったときから、インド洋にポルトガルの艦隊がたどり着き航行することが目指されていた。喜望峰迂回前のアフリカ沿岸地域における大西洋探検に比べると、インド洋においては計画性がほとんど見られないといって過言ではない。

 

アフリカ東岸と近隣の島々

 バルトロメウ・ディアスが喜望峰を迂回した後、インファンテ川に到達し、またヴァスコ・ダ・ガマも同様の航路を辿っている。その過程において以下のような島々を発見している。Ilhas Palmeiras、 Ilha de Moçambique、 Ilhéus de São Jorge (Goa e Cena)、 Ilhas de Quirimba、 Ilha de Manfia (Mafia)、Baixos de São Rafael (Carang Island)、  Ilha de Pemba、 Ilha de Zanzibarなど。

 ヴァスコ・ダ・ガマが沿岸部を通過したソファラやキロアは、一五〇〇年夏にペドロ・アルヴァレス・カブラルが指揮する艦船が偵察をした。特に、艦隊の中の一艦船の司令官ディオゴ・アルヴァレスは、モガドクソから北上し紅海の入り口まで行ったり、現在のマダガスカル島も八月十日に視認し、サン・ロウレンソ島と名付けた。モザンビークとマダガスカルに浮かぶコモロ島のほか、メリンデ北部の諸島など、ヴァスコ・ダ・ガマに続くインド行き艦隊が発見している。

 

ペルシャ湾とその近海

 ポルトガル艦隊がインド洋に展開した初期において、ペルシャ湾探検は、東はインドのマラバールからアフリカにかけての沿岸部に限られた。ペルシャ湾、紅海への伸張は一五二〇年代初頭のことだった。

 ヴァスコ・ダ・ガマがカレクットを去り、一四九八年九月十日にCananorカナノールと思われる集落の沖合を通過した。その後、陸から吹く風で置きに流され、十五日に諸島を発見しサンタ・マリーア諸島と名付けた。その後、Laquedivasラケディヴァス島、Angedivaアンジェディヴァ島を発見した。

 一五〇三年、アフォンソ・デ・アルブケルケがインド南部Coulãoコウランまで行った。同年、ヴィセンテ・ソドレーがアデン湾入り口あたりでSocotoráソコトラー島を発見した。アデン湾先端の岬カボ・グアルダフイに向かい、現在のオマンのあたりのクリア・ムリア島を発見した。一五〇四年、アントニオ・サルダーニャがアデン湾東部の島を発見した。その後、アフォンソ・デ・アルブケルケが紅海、ホルムズ海峡、ペルシャ湾を偵察してポルトガルの管轄地域に組み入れた。一五一三年から一五一四年にかけて、紅海とペルシャ湾やそこの島々を偵察した。

 

東インド

 インド最南端の岬カボ・カモリンには、ロウレンソ・デ・アルメイダが一五〇五年の終わり頃に到達した。そこよりも南部に位置するマルディヴァス諸島に行って、インド東部やインドネシアの島々から寄航する船を臨検する目的であったが、航路を間違えてセイロン島の方向に行ったのだった。つまりロウレンソ・デ・アルメイダの船はインド洋東部に入っていたのだった。

 しかし、インド洋東部のベンガル湾横断に関しては、一五〇九年の夏、 ディオゴ・ロペス・デ・セケイラがマラッカ発見の航行時に実現された。続いて、ニコバル諸島、スマトラ島を発見した。ベンガル湾北部の偵察は一五一六年以降のことで、ジョアン・コエーリョがガンジス川にも到達した。

 

セーシェル諸島とモルジブ諸島

 一五〇三年初頭、ヴァスコ・ダ・ガマが第二回目のインド遠征から帰還するとき、セーシェル諸島を発見し、一五二〇年代にポルトガルが製作した地図には描かれた。モルジブ諸島に関しては、一五一一年、シマン・デ・アンドラーデが到着したとされている。

 

マスカリン諸島

 マダガスカル島の東のインド洋にマスカリン諸島がある。一五二〇年代に製ペドロ・レイネルが製作した地図にはポルトガル語でSanta Apolóniaサンタ・アポロニア、後にMascarenhasマスカレーニャス諸島として描かれた。ディオゴ・オーメンの地図にはサンタ・アポロニアとドミンゴス・フェルナンデスが発見した島々と呼ばれた。その後、東側はシルネ島とよばれた。十六世紀の終わり頃、中央の島をオランダ人Van Neckがモーリシャス島、一九〇〇年頃には西側の島をフランス人がレウニオンと呼んだ。現在では、東側の島はロドリゲス島と呼ばれている。

 

チャゴス諸島

 インド洋の真ん中に位置するチャゴス諸島は、十六世紀後半の地図にチャガス島とディエゴ・ガルシア島と描かれた。一五五四年、ポルトガル船に乗務していたスペイン人が発見したことでスペイン語の島名となっている。

 

太平洋

インドネシア

丁字(クローブ)とナツメグの生産地に到達する目的で、アフォンソ・デ・アルブケルケはマラッカ攻略に続き、一五一一年にはインドネシアのモルッカ諸島にアントニオ・アブレウが指揮する三隻からなる艦隊を派遣した。艦隊は一五一一年末にマラッカを出発し、スマトラ島東部とジャワ島北部を通過していくとフランシスコ・セラン艦長の一隻が遭難した。残る二隻はモルッカ諸島に辿り着き、香料を積んでマラッカに帰還した。フランシスコ・セランはジャンク船に乗り継ぎ、モルッカ諸島テルナテ島に到着し、そこで数年間を過ごした。アントニオ・アブレウの艦船に乗っていた水先案内人フランシスコ・ロドリゲスがティモール島を発見した。

 

オーストラリア

 一五二二年にクリストヴァン・メンドンサ、一五二五年にはゴメス・セケイラがオーストラリアを発見した。

 

中国、日本

 ポルトガル人が一五〇九年にマラッカに到着して以来、中国人船乗りや商人と接触した。一五一三年、ポルトガル商人ジョルジェ・アルヴァレスが中国の港に入港した。その後、マカオを中心とする中国との交流が活発となり、日本にも到着した。

 旅行家フェルナン・メンデス・ピントは『巡歴記』の中で、自分自身と二人の同伴者ディオゴ・ゼイモト、クリストヴァン・ボラーリョが日本を訪れたと記しているが真偽のほどはわからない。その後、ポルトガル人は種子島に鉄砲を伝えた。

 

第八章 ポルトガルとヨーロッパの海洋国家

 

 ポルトガルは航海術と天地学を発展させて、大海を航海し、新たな土地、人びととその習慣と交わった。海外進出の初期は宗教、軍事、商業が一体となったものであった。そして、幾人かのポルトガル人は外国の海外進出事業の研究と実践に協力した。

スペイン

 北西部ガリシア地方と南西部アンダルシア地方の大西洋に面した港から、スペインが海外に進出できた。初期は、国家の支援を受けたものや個人の活動として始まり、ポルトガルの活動範囲と同じだった。カスティーリャのカトリック両王が現れると、固有の海外進出を進め、コロンブスを航海に出し、一四九二年に中央アメリカの島々に到着した。コロンブスはギニア、リスボン、マデイラ島にも航海したことがあり、十五世紀中頃からポルトガル人が知っていたギニアへの往復航路、北東や南西の風の知識を利用したのだった。

 香料が生産される地域で向けて大西洋から太平洋に抜け出ることは、スペインの海外進出の初期からの夢であった。そのために、ポルトガル人ジョアン・ディアス・デ・ソリスがスペインにはじめて仕えた。スペイン系ポルトガル人ジョアン・ディアス・デ・ソリスは、ポルトガルで航海術を覚え、アフリカの様々な地点に航海したことがある。冒険家、犯罪者であるジョアン・ディアス・デ・ソリスは、結局スペインに留まり、一五〇八年に太平洋を目指して航海に出たが目的は達成されなかった。一五一五年、カスティーリャの主任水先案内人として南米沿岸を航海し、ラプラタ川河口を探索したが、先住民に殺された。

 生粋のポルトガル人フェルナン・デ・マガリャンイス(以下マゼランと記す)がスペイン船に乗って初の世界一周航海(一五一九年−一五二二年)を実現し、スペインが太平洋に到達することができた。世界一周航海はマゼランとポルトガル人天地学者ルイ・ファレイロが航海を企画し、西廻りで太平洋モルッカ諸島に到達することを目指した。マゼランはフィリピンに到達すると先住民との闘いで死亡したが、残るスペイン艦隊は帰還した。南米大陸南部のマゼラン海峡を通過して大西洋から太平洋に抜けられることができた。

 一五二五年、エステヴァン・ゴメスがスペイン王室の任務として北米から太平洋に抜けることを試みたが、失敗した。しかし、チェサピーク湾とテーラ・ノーヴァ湾の間の地域を探検した。

 スペインに仕えたその他のポルトガル人として、一五四二年から一五四三年にかけてカリフォルニアを探索したジョアン・ロドリゲス・カブリーリョ、一五九五年にマルキーズ諸島(現在のポリネシア領)とノーヴァス・エブリダス(現在のバヌアツ)を発見したペドロ・フェルナンデス・デ・ケイロスなど様々な水先案内人がいる。疑わしいが、一五八八年にポルトガル人ジョアン・マルティンスはスペイン船で極東からイベリア半島まで北極海を通過しながら航海を実現した。

フランスとイギリス

 すでに述べたジョアン・ディアス・ソリスは、一四九二年にフランスにいた。そして、一五〇四年にはポルトガル人水先案内人セバスティアン・モウラとディオゴ・コウトが乗船するフランス船にて協力した。

 イギリスに対してのポルトガル人の貢献は十五世紀後半のことであった。イタリア人ジョアン・カボットがイギリスの海外進出事業に仕えて北大西洋北部地域を航行したときには、情報提供者としてすでに述べたジョアン・フェルナンデス・ラヴラドールを従えた。

オランダ

 秘密情報員としてリスボンにいたフランス海軍将校ラ・マダレーヌの書簡によると、オランダ船に乗ったポルトガル人水先案内人ダヴィド・メルゲイロが、一六六〇年三月十四日にオランダ船で日本を出航し、北緯八十四度から北極海を通過してグリーンランド、アイルランドを通過してポルトガル北部ポルトから大西洋に注ぐドウロ川河口に到着した。ダヴィド・メルゲイロを知るフランス港湾都市ル・アーヴル出身の船乗りによると、ダヴィド・メルゲイロはポルトで一六七三年に死亡した。

 その書簡は一七〇一年一月十四日の日付で、一八五三年に地理学者フィリペ・ボアシュが刊行したが、真偽のほどはわからない。