弱い者を心配する人は、必ずしも自分を忘れているのではない。むしろ、自分を直接いたわることが難しいため、他人を経由して自分に手を伸ばしていることがある。もちろん、これは「親切はすべて自己満足だ」という安い暴露話ではない。人間の動機は、善意か利己心かの二択で動くほど、会計処理が単純ではない。
他者を救いたいという気持ちと、その行為によって自分も救われるという効果は、同じ一枚の紙の表と裏である。
進化心理学から見れば、そもそも慈悲は観賞用の美徳ではない。人間の乳児はひどく未熟な状態で生まれ、長期間、誰かに守られなければ生きられない。そのため、苦痛の表情、泣き声、小さな身体、無力な動作は、養育行動を起動する強力な刺激になった。慈悲は、弱い個体を見て感傷に浸る能力ではなく、近づき、保護し、苦痛を減らすために進化した「養育システムの感情部分」だと考えられている。
ここで重要なのは、このシステムが他者だけに利益を与えるようには設計されていないことである。自然選択は、純粋な動機に勲章を出さない。役に立つ行動を反復させるためなら、脳内にささやかな報酬を支払う。行動経済学でいう「ウォーム・グロー」である。
寄付や援助には、困っている人の状態を改善する効用だけでなく、「自分が助けた」という内的報酬がある。実験では、自分のために金を使うよう割り当てられた人より、他人のために使うよう割り当てられた人のほうが、その後の幸福感が高くなった。
また、税として強制的に徴収される場合にも報酬関連領域は反応したが、自発的な寄付ではさらに強い反応が認められ、「公共財への満足」と「自分が与えた満足」の双方が存在することが示唆されている。
したがって、弱者への心配に自己慰撫が混じっていても、善意が偽物になるわけではない。食事に栄養が含まれているからといって、料理が偽善になるわけではないのと同じである。
とりわけ、自分自身が弱さを経験してきた人にとって、他人の弱さは単なる他人事ではない。災害、暴力、喪失などを経験した人は、経験のない人よりも不利な集団への援助やボランティアに向かう場合があり、その関係には共感の増加と内集団びいきの低下が関与していた。似た災害を経験した人ほど、災害被害者への援助的態度が強かったという結果もある。これは「苦しみから生まれる利他性」と呼ばれる。
他人の中に、かつての自分、現在の自分、あるいは将来そうなるかもしれない自分を見るのである。「あの人を独りにしてはいけない」という言葉の底には、「弱った人間は独りにされるべきではない」という一般原則がある。その原則を他人に適用することで、自分もまた適用対象に入る。
人は他人に毛布をかけながら、この世界には弱った者へ毛布をかける規則がまだ残っている、と確認している。その確認は、かなり自分のためでもある。
脳科学も、この二重性を支持する。他者の痛みを見ると、前部島皮質や前帯状皮質など、自分自身の苦痛にも関係する領域が部分的に活動する。ただし、自己と他者の表象は完全に同一ではない。脳は混同しているのではなく、重ね合わせながら区別している。
つまり、他人の弱さは自分の傷を呼び起こし得るが、他人がそのまま自分になるわけではない。
さらに興味深いのは、「助ける側」の脳と身体である。恋人が痛みを受けている際に腕に触れて支えた実験では、支援者の腹側線条体と中隔野が活動した。前者は報酬、後者は養育や恐怖の抑制に関わり、中隔野の活動が強いほど扁桃体の活動が弱かった。 また、友人への支援的な手紙を書いてからストレス課題を行った人は、対照群より収縮期血圧と唾液αアミラーゼの反応が小さかった。ただし、主観的ストレスやコルチゾールには差がなかった。頭では「私はつらい」と思ったままでも、身体の警報装置は少し静かになっていたのである。心の決算書は赤字のまま、交感神経だけが先に債務整理を始めた。
なぜ助けることが自己をケアするのか。一つは、無力感を有効感へ変えるからだ。自分の過去は救えなくても、目の前の人には水を渡せる。取り消せない経験を、再現可能な行動へ変換できる。「何もできなかった私」が、「今は何かできる私」に更新される。援助とは、ときに過去の改変ではなく、過去の意味の改稿である。もう一つは、注意が自己反芻の密室から外へ移ることだ。近年の神経科学レビューでは、援助が幸福に結びつく経路として、報酬系の活動、ストレス反応の緩和、自己注目・反芻の減少、社会的つながりの増加が整理されている。ただし、多くの研究は相関的であり、効果は援助の自発性、負担、相手との関係、援助が実際に役立った感覚によって変わる。 とりわけ、自分で選んだ援助は援助者と受け手双方の幸福に結びつきやすいが、義務感や圧力による援助では利益が弱くなる。
ただし、この仕組みには危険もある。自分の弱さを他人の中でしか扱えない人は、相手が弱いままでいることを無意識に必要とする場合がある。助言を求められていないのに世話を焼く。本人の選択より安全を優先する。回復し始めると寂しくなる。断られると「せっかく心配しているのに」と怒る。ここまで来ると、心配はケアではなく、他人の弱さを担保にした自己価値の融資である。
本物の慈悲は、弱者を自分の役割の中に囲い込まない。その人が強くなり、自分を必要としなくなる可能性を歓迎する。援助によって自分が慰められることは問題ではない。相手を慰めの道具として弱い位置に固定することが問題なのだ。したがって、「弱い者を心配することで、自分自身の弱さを間接的にケアしている」という命題は、単一の研究で直接証明された法則ではない。しかし、養育システム、自己―他者の神経的重なり、援助の報酬効果、ストレス緩和、苦しみから生まれる利他性をつなぐと、十分に妥当な心理学的解釈である。人は他人の傷を見て、そこに自分の傷を発見する。そして、その傷に手当てをすることで、「傷ついた者は見捨てられない」という規則を世界に一つ追加する。
慈悲とは、他人のためだけに架ける橋ではない。橋を架けた者自身も、その橋によって孤島ではなくなる。