復活、ではなくて。
継承と新生とを併せ持つ、再生。
私はまだ大輔さんの真の怖さを知らなかったんだ。
そして、知らない、のだ。
幾重にも層をなすパフォーマンス。
それぞれの場の色に完全に溶け込みながら
同時に
「求める先に見つかるもの」の存在を示し
あるものには「高橋大輔のスケート」を知らしめ
あるものには「以前の高橋大輔ではない」と気づかせる。
そしてさらに同時に
彼自身の中で、粛々と、ことが進んでいく。
タマヨバヒの声は届いたのだ。
深い深いところで、膝を抱えていた大輔さんの魂に。
彼が好きな曲を彼自身のために滑る。
注がれるたくさんの視線と息づかいの中で
音楽と共にあるということ
そのことが彼の魂を甦らせる。
欠片も含めて三つのKissingは
大輔さん自身によるタマシヅメの舞であり、タマフリの舞であり
――つまりは、まさに再生への儀礼であった。私の眼には。
この先のどのタイミングで
次のプログラムを滑るのかはわからないけれど
おそらくは膝の状態次第なんだろうけれど
でもその時が、その時こそが
真に脱け殻から戻ってきたとき
新たな一歩を踏み出すときなんだろう。
N杯後のけがを
あの時私は、受苦の最後のひとしずくと呼んだ。
高橋大輔という聖なる器を充たしたpassionは
しかるべき時にしかるべき場所で迸りでる。
愛となって。
その時私たちは
これが意味ある一滴であったのだと知る。
それはソチのリンクで、と信じていた。
全日本の前までは。
全日本。
ソナチネの身体のそこここに滲む「苦しい。」
ビートルズの全身から溢れ出す「ありがとう、さようなら。」
あの時「人間高橋大輔」から受け取ったそれらに
私の中でいろんな感情が渦巻いた。
未だに書けずにいるあの頃の思い。
とにもかくにも、
ソチのリンクがしかるべき時と場所であるには
彼の「器」は、いつの間にか
あまりに大きくなっていたということなのだろう。
「ウチくる!?」で
左足が空に描く弧の余韻が、再び戻ってきたのをみたとき
血を吐くような叫び声、という言葉を聞く時の微笑みをみたとき
そして、
そう思えるようになるには、この1年だったりこの2年だったりが大事なのかな、
という言葉を聞いたとき
私は再び確信したんだ。
ただ、しかるべき時を待てばいい。
時来たりなば、しかるべき場所は自ずと決まる。
それもまた「完結」のときではないだろうけれど。
その時、その場を充たすものは
なんなんだろう。
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