哲学すると何故かすっきりしませんか。 | 旧ブログ

哲学すると何故かすっきりしませんか。




写真はイタリアの伝説・ル・コルビジェのデザイン・デッサン
彼の絵と日本の一輪の花は似合ってよく通じます。・・・
哲学的とはこんなふうに人にものを考えさせたくなることだと気づく。

哲学、つまり物事の本質を考えると
ふっと泉のようにアイディアが湧くから不思議。

ところで今はやりの二元論ってまだもう一度
聞かないとわからないのです。

ちょうど月刊「ぺるそーな」11月号に載っていましたので
一緒に読んでください。

松永太郎
統合哲学 「非二元的な経験」について

すでに、この欄で何度か「非二元論」について、触れてきた。
アドヴァイタ(二ではない=非二元)・ヴェーダンタ、禅、
あるいはチベット仏教の金剛乗などに見られる「究極の教え」である。

老子の「タオ」(「道」)も、それと同じである。

多くの研究者が、インドのウパニシャッドと
タオ(道)の根本的な同質性を指摘している。

古代から人間に伝えられてきた、
この根源的な叡智を、
イギリスの作家オルダス・ハックスレーは「永遠の哲学」と呼んだが、

この非二元論は、そのもっとも代表的なものである。
すべての宗教や哲学の核心には、
実は、この教えがあるとさえ言える。
 
論とは言いながらも、
非二元論は、知的・論理的な議論ではない。

むしろ、それは認識あるいは意識の転換である。

そして、20世紀になってから、
このような転換を行った人は、数多く現れた。

彼らのなかには、今、あげたような禅やヴェーダンタ、
あるいは金剛乗を実際に学んだ人々もいるが、

なかにはエックハルト・トーレやバイロン・ケイティのように、
まったく自発的にそうした転換を行った人もいる。
 
今、行った、と書いたが、
非二元的な転換は、私たちが常々、そう思っているように、
何かを「行うもの」ではない。

つまりここに「主体」があり、
それが何かを「行って」あることが起きるのではないと、
たぶんに突然、認識することで起こる。

禅でいう「頓悟」である。
悟りである。

非二元論者にとって、すべての出来事は、
ただ「あるがままに」起こるのである。
 
たしかに、ここには逆説が含まれている。

古来、人は悟りを求めて修行してきた。
たとえば公案。
たとえば只管打座。
あるいは即身成仏。

人は、悟りを求めて、仏門に入り、この修行を行う。

けれども、少しでも仏教を学んだとたん、
たちまち、逆説にであう。

たとえば般若心経は言う。
「得るものなど何もない」。

あるいは別の経は言う。
「三世不可得」と。
過去にも、現在でも、未来でも、得るものなど何もない、と。

得るものが何もないのに、
どうして悟りなるものを得ることができるのだろうか。

非二元論は、このようにして、
ある究極の逆説に私たちを導く。

いったい、そうして何かを獲得したい、
あるいはまた得たい、と思っている、この「私」とはなんなのか。

前回に触れたデカルトにおいては、
およそ、外界(と彼が考えたもの)すべてに起こっていることは、

たとえば悪魔が起こしているのかもしれないが、
しかし、それを見ている「私」、
そう考えている「私」がいることは疑いない、とした。

「私」は、今、「考えている」(考えるという行為を行っている)。
だからそれを考えている「私がいる」ことだけは疑いないと。

これを現代の認知科学では「デカルト的劇場」とよんでいる。
世界の中心に「私」がいて、その「外界」に対して
「私」が考えたり、感じたり、反応したりするという認識である。

アインシュタインはこれを「視覚的な幻想」と呼んだのだった(この項続く)。