第三の敗戦 | 旧ブログ

第三の敗戦



写真は小松ストアーのあったところ。
小松ストアーはかつてはどのデパートより
ちょっといい物があったわくわくするお店でした。

銀座を歩いていると、
昔懐かしいお店が次々となくなっています。

歩いているお客さんも、
ちょっと小耳を傾けると
中国語や韓国語が多い。

敗戦直後は、とくに銀座四丁目には
タイロン・パワーにMP(アメリカ軍のおまわりさん)
として交通整理に立たせたりして、
日本女性をぼーっとさせる。

アメリカさんの戦略将校は
なかなかやるなーという感じだったのです。

とにかくアメリカの軍人さんも夫人たちも銀座を闊歩していました。
はっとキレイで元気がよかったのはパンパンといわれる日本女性。

そのころの松屋はアメリカのPX,日本人は入れない。
覗くと夢のように美味しいものがたくさんあったそうです。

今の銀座は裕福そうな中国の人や
韓国の人が楽しそうに歩くようになりました。

世界と日本

月刊「ぺるそーな」も来週には9月号が出ますが、
8月号の中丸 知さんをご紹介、
彼は大学卒業後、自衛隊の幹部候補生
そして今はフリーライター

四川省で地震があったかと思えば、
今度は岩手・宮城内陸でまた地震が起きた。

次から次へと地震やら災害やらが続いているが、
自衛隊に勤務している人々にとって、
災害というのは実際のところ民間人が思っている以上に頻繁である。
 
人によっても違いはあるのだろうが、
私は特に災害派遣の多い人間で、
飛行隊で部隊勤務に就いていた期間の殆どが災害派遣期間だった。
 
自衛隊に勤務していると、
各種教育機関で教育を受けたり、臨時勤務をしたりと、
度々原隊を留守にするので、
実際に第一線の部隊に勤務している時間は意外と少ない。

・・・晴れてパイロットになったのが、
一九九七年の三月だ。

ようやくパイロットになったと思えば、
私は断り続けたが、今度は幹部初級英語課程やら、
幹部上級英語課程やら、幹部格闘課程やら
なんだかやたらと入校を勧められる。

・・・・さて、その非常に短い第一線の部隊勤務の間、
私の場合はその殆どが災害派遣だった。

幹部候補生学校が終わったら、
すぐに阪神淡路大震災、
それに続いて地下鉄サリン事件。

幹部初級課程から帰ってきたらすぐに
山梨県南部で山火事、
栃木県南部で山火事と山火事ずくめ。

パイロットとなって戻ってきたら、
すぐに集中豪雨の行方不明者捜索、そして山火事。
さらにやめる直前には三宅島噴火。

・・・というわけで、何から何まで災害派遣一色であったが、
では、私のいなかった間、部隊では災害派遣だらけなのかというと、
実はその間、災害派遣は一回もなかったりする。

常に私と入れ替わりで部隊に出たり入ったり
していたちょっと上の防大出身の先輩は、
一度も災害派遣を体験せずに終わっていたりもするので、
人の巡り合わせというのは不思議なものである。
 
そういう目線から今回の地震を眺めてみると、
一見無意味に思える気の遠くなる作業を
「しなくていい」というほっとした気持ちよりも、
そこに「自分がいるべき」なのに、という後ろめたさの方が遙かに強い。
そして、これはたぶん、一生消えることはない。

(中丸さんは、ちょっとした揺れでも
 だいたいどこで震度いくつぐらいかと
 いうことが自然にわかるそうです。
 それが戦ってきた人の神域に達した
 昔ながらの姿勢なのだろうと
 私はあらためて感じ入ります。)