肌のためには肌をいじめることも大事 | 旧ブログ

肌のためには肌をいじめることも大事

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2008年3月14日

荒療治

写真は宮城の山から硯石を切り出して、
そのままコバルト色をかけたもの、そのままがとてもいい。
太平洋の深く広い海がここから見える。
関西割烹の店、「いいでしょう、おじさんが開店祝いにくれたのです」と嬉しそう。

さて、月刊「ぺるそーな」3月号の中丸 知さん、
どうやらちょっとケガをして私同様、ちょっと思うとこをあったみたいです。

「先日、ちょっとした怪我をして何日も風呂に入れないことがあった。
そうなると当然、頭もかゆくなるし、体もくさくなる。

私のようにアトピー性皮膚炎をもっている
人間にとっては最悪の環境で、どんどん湿疹が酷くなり
体中が爛れてくるのが当たり前なのだろうと
思っていたら意外に平気で、むしろ普段よりも肌の調子がいいくらいだった。

これは、たぶん、冬場であまり汗をかかないことも影響しているのだろうが、
実はこれと似たようなことは以前にも何度かあった。
 
自衛隊では、「演習」という一大イベントが年に何度もある。
「検閲」と呼ばれる部隊にとってもっとも大切な演習の
ある年には殆ど毎月のように演習をしていて、まあ、本当に大変である。
 
何が大変かというと、演習は実戦を想定した訓練である。
訓練がスタートすることを「状況開始」というが、
その「状況」が始まれば基本的には、日常とは全く違う環境に身を置く。

つまり、戦争をしているのと同じ状況に身を置くから、
体中に木の枝や草などをくっつけるだけでなく
顔に緑色のペイントまでして、穴をやたらと掘りまくる。

走りまくる。穴掘りや走るのが大好きな私にとっても、
まぁ正直言って辛い。
 
そしてもう一つ辛いことがある。

演習中は基本的には風呂に入れない。
当然ながら戦争中だから、上官が作戦上の都合で決定した
陣地に立派な風呂などあるはずもない。

では、よく災害時のニュースなどで見られる
自衛隊の野外用の風呂などがあるではないか、
と思われるかもしれないが、小さな部隊である
飛行隊の演習ごとについてきてくれる筈もなく、
また、そうであれば実際の戦争になっても小さな部隊には
そう簡単に風呂に入る機会は巡ってこないだろう。
 
そうなると、風呂に入らずにそのまま過ごすことになるのだが、
アトピー持ちの私にとっては本当に最悪の状況だ。

普段ですら、風呂上がり体を乾かして、薬を塗ってと、
スキンケアにかける時間は三十分もあるのに、
演習中にそのような時間はとれない。

やるのだったら、ただでさえ短い睡眠時間を
削って体の手入れをしなければならない。
 
当たり前だが、体を濡れたタオルで拭く体で終わらせ、
髪の毛も適当に拭いておしまいにしなければならない。

その場合でもそれはそれで精一杯気は遣うのだけれども、
普段と比べると非常にいい加減な状況でしかない。

それでも、普段と違う状況でもどれだけ普段と同じようなことができるか、
というのは極限の状況下では非常に重要なことである。

やれる範囲のことをするだけだが、
まあ、正直言って体は、圧倒的に臭い。

脱いだ下着をビニール袋に入れるだけでも、
咽せ込んでしまうほどである。
 
ところが、そうなると必ず湿疹が酷くなると思うと実はそうでもなく、
むしろ普段よりも肌の調子がいいことが、時々ある。
 
普段のスキンケアがやり過ぎなのかどうなのかはともかく、
かなり肌の肌理も細かくなりいつも湿疹に悩まされている
部位ですら治っていることがある。
 
それが何が原因なのかは全く分からないが、
人間、多少悪い環境におかれた方が人間本来の回復力や
治癒能力が高まるのではないかと、勝手に解釈している。
 
今回のちょっとした怪我というのは実は安全カミソリで
ひげを剃っているときに力を入れすぎて顔の皮をかなり
の範囲でベロリと剥がしてしまっただけなのだが、
まあ、もし、肌の調子が悪くなったら荒療治では
あるかもしれないが、是非やってみるといいかもしれない。」

人間って不思議です。
たまに病気もいいかもしれないと私も思いました。

動けないで時間だけはあるのです。
考えるともなく考える時間があるということは、
突然ハッと色々なことに気づくのです。

なにより、家族、先輩や友人、人に対する感謝を心から知ります。
「ありがとうございます」という言葉があふれます。

それから肌の荒療治、これは女性にも参考になります。






最終更新日時 2008年3月14日 6時42分6秒
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2008年3月13日

哲学もおしゃれの隠し味

海外からの賓客はみんな肝臓が丈夫そう、
ある店先の写真から。

このたび肝臓を患ってはじめて、
人間は頭で考えているのではない、肝で考える、
という実感を持ちました。

肝臓が弱りきると、考えることも読むことも
何もしたくなくなるのです。

だから頭なんて、
肝臓の出先機関というだけ。
肝がしっかりしていなくては本当の考えはでない。

哲学と正面きって向かい合えるのも
肝臓の調子がいいとき。

でも松永太郎さんの哲学は凄い、
一番難解が事柄を(少なくともフロイトなんて私には)
すらりと解説。
病気の私にもすらすらとわかる。

松永太郎さんの
月刊「ぺるそーな」の統合哲学が
どんなにすばらしいかあらためて敬服。

心と身体の関係がどう発見されていったか
大変わかりやすく解説、頭がすっきりしました。

おしゃれも、肝臓が丈夫でなかったらまず化粧もできない。
だって黄疸がでていては化粧をしても映えない。

肝臓って凄い臓器です。
八割がた、壊滅するまで正常にしらんぷりして働くとは。

「統合哲学  さまざまな学問の視点」

松永 太郎 月刊「ぺるそーな」3月号より

「今までは、科学の視点というものを取り上げてきた。
今回は、さまざまな学問が、現象ないし事象というものを、
いったい、どのような視点から取り上げてきたのかを見てみたい。
その一つの例として心理学を取り上げる。
 
心理学においては、フロイトという人がいわゆる「無意識」を発見したことになっている。
無意識ないし下意識(サブ・コンシャスネス)という概念は、
インドのヴェーダンタや大乗仏教の心理学においても、
また西欧の新プラトン主義などにおいても、
すでにそれに相当するものは存在していた。

フロイトは、それを抑圧とか備給とかいう
熱エネルギーの力学用語を使って説明したことが、
非常に新しかったのである。
 
しかしフロイトの心理学は、反発を招いた。
それは、まず心理学が自然科学の一部門とされていたことによる。

自然科学というのは、誰でもが観測できる、
あるいは経験できる「客観的」な事象をとりあげる。
つまり事象を外側から見ている。

しかし「下意識」は人間の心の内部のことである。
つまり誰でもが客観的に見ることができない。
 
フロイトの心理学は、フランス、南米、そして
なんでもヨーロッパの新しい学問には飛びつくアメリカでは取り入れられたが、
また大衆の間でポピュラーにはなったが、その後、それほど発達しなかった。

アメリカにおいては、フロイト的な心理学への反発から、
誰でもが目にできる事象、すなわち外側に現れた人間の行動を取り上げる
「行動主義」が発達した。

しかしドイツでは、いわゆる現象学が生まれていた。
この現象学は、人間の前に現れる事象を「現象」として
扱うことによって、初めて人間の心の内部への道を開いたのである。

それは、どういうことだろうか。
 
すでにヴェーダンタや大乗仏教の心理学が教えていたように、
われわれの意識の前に現れる現象、という意味では、
音や光のような外側の事象も、また不安や歓喜のような
「心的な現象」も「現象」という点では同じである。

存在つまりエクジスタンスとは、外側に立つ、という意味である。
空を飛んでいく雲も鳥も、あるいは彼方から聞こえてくる霧笛の音も、
今、感じている気分も、現象という意味では同じ「存在」である。

つまりそれらは、意識の前に立っている。フロイトは、
心的な現象を取り上げ、その現象の因果関係を自然科学的な
文脈ないしは方法論で取り上げようとした点で画期的であった、といえる。
 
ドイツの現象学は、それ自体、哲学として、
人間の意識に現れる現象をできるだけ精密に、そして「ありのままに」観察する、
という方法である。

ここでは科学的な解釈ないし文脈をつけることはしない。
現象学が、やたらに複雑きわまる用語を用いるのは内面的な
事象をできるだけ精密に捉えようとするからである。

しかし、インドのヴェーダンタでは、すでにこのようなことが行われていたのだった。
 
それが再発見されたのは、最近のことである。
アメリカの心理学は、フロイトのような概念も、
また行動主義というようなドライな還元主義
(ねずみなどの行動で、人間の行動を説明しようとする)
でもない、新しい分野が生まれていた。

それは現象学と同じように、人間の心の内部を
まったくありのままに取り上げてみようとした。

すでに人間性心理学と呼ばれる分野が、
健康な人間の心の状態とは、どのようなものかに着目していた。

また、医師たちの多くが、人間の心の状態と身体の状態には、
ある種の相関関係があることにも注目し始めた。
こうして、まったく驚くべき発見がなされていったのであるが、
そのことはあまりまだ知られていないようである。」