世間は狂気を受け入れないと思う。

 

京アニ無差別殺傷事件の被告は、死刑の実刑判決に服した。自分勝手で無分別なあの狂気の沙汰で、残された遺族はどんなに苦しんでいることだろう。死刑判決が下されても、被告から遺族への謝罪は一切なかった。


札幌ススキノのラブホテル内での猟奇殺人、おぞましいあの狂気は、人の頭部を切断するもので、血吹雪となった現場の想像は、難しい。女はどうやら精神障害らしく父親は精神科医ではあるが常軌を逸した犯行に及んだ。後日、監視カメラの解析により、その全貌が明らかになっている。


このような狂気は、世間の善意を根底から覆す。


狂気の持ち主が、いかなる理由により、または快楽により、犯行に及んだのか、精緻なことは分からない。ただひとつ言えることとして、この人たちの不幸がある。しかしその不幸は、もはや同情には値しない。幸せになるための努力を怠ったのかもしれない。自己愛で完結した異常な倒錯は時に涙による自己陶酔にも至ったろう。だがそれでこの世からなくなった人たちがいる。殺された人たちがいる。社会秩序は寸断され、大多数の人々が今も怯えている。


そもそもこの狂気の持ち主は、孤独を恐れる孤独者だったはずだと思う。味気ない世界の中で、ひとり涙する不幸だったのだろうが、その涙が実は問題で、醜悪と美とを混同する無分別が際立つ。孤立した狂気の周囲はみんな笑顔で幸せに笑っている。その幸せな笑顔を妬むにしても、裏切って殺戮に及ぶなど許されない。


札幌ススキノの事例では、家族ぐるみで《傷を舐め合っていた》異常が問題。裁判の行方を見守りたい。優しい、優しい…狂気の家族内での倒錯した勘違いのその美徳も、実際には人を殺害する重要な要因となったことを見逃せない。優しいと狂気の家族が自認したものは、愚かしさに過ぎなかったのかもしれない。