気をつけていないとその人は自殺してしまう。
自殺者は一般には復活しない。
私は自分なりのカルテを整理し
ひとりひとりのカルテに栞をはさむ。
そこには他界した自殺者も含まれている。
笑顔だった男友達や華やかだった私の元カノ。
それが役に立たないとは思わないから
カルテに今も書き込んで心に保管している。
私は精神障害者ピアサポーターだから。
NPOを辞してから
福祉の組織を離れてから
より一層わたしは福祉の何たるかを理解した。
今は自由で
孤独なのかもしれない。
基本的に私は学生時代から変わらない。
当時の私は健全そのもので
凡そ病いとは縁がなかった。
いつまで経っても学生みたいで恥ずかしいが
精神障害者になってからも
変わらないし変われない。
考え方や感じ方の偏りでありクセなのかもしれない
それでもこのスタンスを変更するつもりはない。
このやり方で私はキャンパスのど真ん中を
闊歩していたのだから。
私にはイジメや引きこもりの経験がない。
経済的貧困とも無縁だった。
幸福になるために生まれてきたような私が
不幸せを理解するには
専ら想像力に頼っている。
哲学といえば
アルベール・カミユも指摘するように
重要なことはただ一つしかない。
自殺の問題がそれで
私の周りには自殺未遂や自殺行為で満ちている。
少なくとも希死念慮はありふれて
不意にまた自殺する人が現れる。
自殺を食いとめる社会の出現に
微かで僅かな期待を私は寄せている。
レジリエンスの高まりを精神障害者に
なかなか期待できないけれど
障害者の友だちとして立ち居振る舞う私は
きっとまだ無力でたぶん無知でさえある。
華やかだった私の元カノも自殺したが
彼女への礼儀の仕方を私は心得ている。
精神科医なら自殺者のカルテを記述しない。
付け加えるべきことはないだろうし
それが医師としての穏当な節度だからだ。
自殺のSOSサインを見落とした失態について
沈黙を選ぶのが医師でもある。
仲間の自殺により
取り残された私は
医師とはスタンスが違うし
守るべきフィールドも違う。
私が自殺せずに済んでいるのは
生まれながらのDNAに匹敵するくらいの
健康の因子が心身に宿っているからで
こればかりは偶然であると共に
私の不断の努力の成果
そのためには地獄へ足を運んでみるのも
厭わなかった。
「人は、自殺を投企できない」
自殺を過去のものとしたモーリス・ブランショは
慎重にそう書いて金字塔とする。
精神障害者の自殺は
職の有無に関わらず起こってしまう。
精神障害者としての一般就労をしない人も
精神障害者としての一般就労している人も
不意にひょんなことから自殺する。
社会が複合的になって原因となったり
単に患者のレジリエンスの問題であったり
他者の自殺が引き鉄となる場合もある。
この自殺が周囲で乱立すると
私はすっかり取り残される。
道徳としての
「自殺しちゃいけない」
などは却って邪魔になると思う。
自殺を促進させる危険性がある。
社会規範としての道徳は単調だが
自殺を企図する側の人間は
複雑だから。
自殺についての思考の一貫性は
さしあたり自殺を敬遠する力に資する。
ショーペンハウエルは
豪勢な食事を摂りながら
『自殺について』を書き進めた。
彼はご自分の知性でご自分の希死念慮を
なぎ倒す。
華やかだった元カノが恋人だった当時
「行ってまいります!」
私は彼女に満面の笑みを浮かべて出発し
「行ってらっしゃい!」
半同棲の彼女も笑顔で送り出してくれたが
まさかと感じる瞬間があるとは
互いに知るはずもなかった。
こんな悲劇に抗するため
私は日々ココロのカルテに書き込んでいる。
彼女のケースはこう
彼の場合なこう
会ったときにはさりげなく私は挨拶する
「はーい。元気してた?」
J.P.サルトルのこんな言葉を頼りにしながら
「自由とは、状況と状況の間に存在し、状況と状況の間にしか自由は存在しない」
我らの向こうを
