焦らずに、といっても難しく、ついつい焦りがちになるのが、人情。私たちは、今、生きて、感じる人間ですから。それに、焦らずに過ごすそのやり方が、そもそも分かりませんよね😊


私の過去もそんなでした。


で、いつも疲れ果てて、何もせず、何もできず、時間だけが確実に去っていく。学生時代の友だちは、申し合わせたように出世街道を邁進している。取り残されて、尚、精神疾患の仲間が自殺し、本当の意味で、取り残されてしまう。


家族さえ不理解しか示さない。親戚に至っては不理解が当たり前で、子どもの頃に田舎へ遊びに行った思い出も、今や分断されて苦痛の材料に成り果てる。


精神科医は機械的に安定剤を処方するだけで、話を聞いてくれているのかどうなのか、よく判別できない。またいつもの安定剤が処方され、カウンセリングはそれでお終い。


ますます気が滅入り、心がすさむ。


時には、暴力を自分が起こしそうで、不安にもなり自己嫌悪にもなる。ニュースの事件で「住所不定、無職」の容疑者が、自分のことのように思う。投影してしまう。


カウンセラーでさえ、煩わしく、かえって頭が混乱する。


錯乱だけしか確実なものがなく、自殺を企てそうな自分が恐ろしく、もう何を信じたらいいのか、分からない。


自分を見失うな、と、人々は諭すけど、その意味がまるっきり分からない。


症状は一向になおらない。


無為に過ごすことが板についているせいか、未来への展望などあり得ない。そして、無為に過ごしてる、と、誰かから指摘されるのが怖く、傷つく。



こんな風に、精神疾患になりますと、暗い苦悩が続きます。


大丈夫。


自分では気づかないうちに、心もからだも、ゆっくりゆっくり回復しています。


不調から回復までの長い道のり、これを楽しむ術さえあればいいんです。問題は、それだけ。


希望を限定し、野心をできるだけ捨てて、子どもの頃に望んだ夢の幾つかを、諦めてしまうとラクです。


諦める、というのは、《あきらかに、きわめる》の意味です。必ずしもネガティブな言葉ではなく、むしろポジティブといってもいい。学校では《「頑張る」ことしか教えない》んです。《諦める》ことを学校では決して教えない。明治維新から学校はこんな傾向で推移していて、個人的に私は文部科学省の失策だと思っています。


学校には、学校の限界があると思います。私は大学生のときに、教職課程を履修しませんでした。法学部の法律学科でしたが、法学部での教員志望は、他学科なんですね。法律学科だと、そのまま司法試験に直結することになりますから。


いつも私は思うんです。学校では頑張ることしか教えない、と。それが学校と教員の限界だと思います。だから、学校で普通に学んだことの範囲内で考えると、必ず行き詰まると思いますよ。


諦める、これは実は禅宗の言葉です。夏目漱石が活躍していたとき、漱石に相談した女性がいました。すると、漱石は「あなたは、私のところへ来るよりも、お寺に行ったほうがいい」と回答しました。


漱石自身、イギリス留学で神経衰弱になった際、帰国してまず鎌倉の禅のお寺で養生しています。


私も苦しんだけど、当事者としてイタリアでも働けたし、今はとても幸せ。


あんまり、悩まないほうが、ベターだと思いますよ。