精神疾患に陥りますと、理路整然と思考するのが困難な局面に差し掛かることがあります。
加えて、社会からの有形あるいは無形の偏見が、胸や脳に突き刺さります。
すると、どうしても錯乱するのは当然で、ますます不理解が進んでいきますね。
苛々しがちで、怒りがなるほど沈みません。
苦悩の銷沈についてマルセル・プルーストは小説の中で書き連ねています。彼の思想によれば、小さな文芸サークルとして活動するのがベターだとされ、私も試みてみたのですが、志し半ばで頓挫しました。
さて、怒りの底知れぬ感情につき、アンガーマネジメントの理論では「およそ6秒で雲散霧消する」とされていますが、実は、そんな単純なものでもなさそうです。
精神疾患の患者さんたちは、中世ヨーロッパでは、まぁサバトと呼ばれる夜宴をしていました。性的にかなり寛容だったようで、別に乱行パーティーではないのですが、今現在の日本ではチョッと想像できないくらいの赦し、つまりとても寛容な性愛があったそうです。
そこがどうやら当時の権力層から見れば邪魔だったのでしょう。キリスト教会は厳しく精神疾患の患者さんたちを断罪しました。歴史家ミシュレの『魔女』には「遍く殺戮された」と記述があります。
そんなところから、精神疾患への偏見が顕在化したようです。
私たち精神障害者の先輩たちは、こうして悉く処刑されたのです。
精神疾患の患者さんで頻りに考えようとする人たちは多い。これは、私たちが《理解したいという欲望を持っている》からで、詩人ポール・ヴァレリーの『テスト氏または未完の物語』を読めば、分かります。
怒りの苦悩を除去する薬はありません。安定剤は、副次的なものに過ぎません。
誰からも理解されず、家族や親戚からも放擲された場合、たぶん、もう何も考えないほうが得策のようです。何も考えず、何も見ない。万人に見捨てられたような真夜中があります。寂寥は極北です。いっそのこと死んでしまいたくなるのかもしれません。確かに、精神疾患に於いて、自殺は避けられない場合があります。そこに至る前に、ゆっくり休んで、周りの仲間たちを眺めるといいのかもしれません。事実、自殺を遂げた仲間たちもいるでしょう。しかし、こんなときこそ、深呼吸して、落ち着くといいのです。
ゆるゆると、自分を愛すること。
目を閉じて始めて見えるものがありますね。
あなたの近所に、あなたと同じように、苦しんでいる仲間がいます。彼女は息も絶え絶えです。彼は額を両腕で覆っています。その人たちのために生きているあなたではないけれど、その人たちは、実は、あなたなのかもしれません。
《賢くなるな、貧乏するぞ。賢くなるな、貧乏するぞ》詩人コクトーはそう綴ります。
どうかそのことを、あなたは近所の仲間たちに、つまりあなたご自身に、優しくそっと伝えてください。
きっと、生きやすくなるはずだから。