単身、私はイタリアへ渡った。


成田空港まで、当時の恋人が着いて行くと言い、早朝、彼女は私の自宅へ来て、躊躇って私は日暮里までとさせてもらい、申し訳ないが帰ってもらった。上野から成田空港まで特急スカイライナーで行った。空港に着いたのは午前6時頃、円をユーロに替え、北ウイングからアリタリア航空の飛行機に乗った。成田からローマへの直行便だった。


イタリアで働く上で、イタリア語の特訓を受講した。仕事が終わってからのイタリア語講座なので、しんどかった。通常の研修も仕事が終わってから通常通りあったから、語学習得には体力と精神力が必要だった。疲弊して、私は精神的にめいいっぱいの状態でイタリアへ向かった。


アリタリア航空のジェット機の乗客は、95%以上が外国人だった。機内を見渡しても日本人はいない。言語は、英語とフランス語、そしてイタリア語が全てだった。恋人のことを機内で考えた。もうお会いできないような気がして、感傷に浸った。純真な顔をした彼女を、抱き寄せたいとも感じた。彼女も私も、精神疾患の患者だった。「心配だから」そう言ってくれたのに、彼女を邪険にしたことを悔やんだ。一頻り機内で眠ると、もう香港の上空だった。


ローマのレオナルドダヴィンチ空港は、途轍もなく広大で、成田空港がオモチャのように思える。とにかく喫煙したく、私は英語でラテン民族のイタリア女性に喫煙所のある場所を訊いた。ラテン系の他に、アングロサクソン系、ゲルマン系、アジア系、アフリカ系、もう人種の坩堝で、アジア系のほぼ全てが裕福な中国人だった。喫煙所内に、日本人は私一人。ゲルマン系のドイツ人らしき男が、銀色のアタッシュケースを大事そうに抱えて喫煙していた。ラテン系のフランス人女性が、赤いワンピース姿で目を閉じながらゆっくり煙を吐いていた。私はIQOSでメンソールを吸った。もう恋人を思い出せなくなっていた。ローマからイタリア国内線に乗り換えて、ボローニャへと行かなければならない。一時間だけ飛行機に乗れば、ボローニャに着く。イタリアは、真夜中だった。レオナルドダヴィンチ空港は、英語とフランス語とイタリア語のアナウンスが鳴り響き、私は日本のことを忘れていた。


25時をとうに過ぎて、ボローニャに着いた。現地の女性精神科医が、TOYOTAのクルマで迎えてくれた。イタリア語で彼女に挨拶すると「英語でいいから」と気を遣ってくれたから、嬉しく感じた。イタリア語とフランス語とを私は頻繁に混同した。ついフランス語で話しかけることがその後、多くなる。自分でもどうしてなのか、分からなかった。ある日を境に、英語でのゴリ押しとなる。


TOYOTAのクルマが私の居場所となるアパートに着いた。瀟洒な部屋に入ると、テレビがSONYのものだった。日本のビルと、造りがまるっきり違う。エレベーターの鍵が複数あって、煩わしかった。ポツンと、ひとりぼっちになる。日本人は身近にいない。私のイタリアでの仕事が始まる。妙に頑丈なアパート、窓を開けると、オレンジ色の街灯がベランダを照らす。建物は密集していなくて、秋の涼しい風が吹く。テレビをつけようとしたら、壊れていて、ディスプレイには嵐のノイズしか映らない。部屋の向こうに小学校がある。どの屋根もオレンジ色で統一され、イタリアンオレンジと呼ばれる。不意にiPhoneを見ると、日本の恋人からメッセージが入っている。「着いたよ」とだけ返信して、私は眠った。


映画監督フェリーニと一緒に映画作成をしたという人物と会う約束があった。私には貴重な経験となった。彼は二階建てのアパートに住んでいた。老いた紳士という風情の彼は、イタリア国内の五つの大学で考古学を教えているとのことだった。雉虎の猫が二匹いて、彼の奥さんが猫の名を呼ぶと擦り寄ってくる。チーズや生ハムやパスタを寄越して、老夫婦はワインを飲む。フェリーニのことよりも、老夫婦は私の文学経験を知りたがった。「プルーストを尊敬しています」私が言うと、プルースト談義になった。ドストエフスキーが老紳士の好みだった。頻りにタバコを吸いながらの談笑。大学でこんな風に教えているのかな、私はなんだか愉快だった。


ヴァレンチーナ…彼女はイタリアで活躍するデザイナーで、精神疾患があり、イタリア人にしては英語が堪能、モードの着こなしも私は彼女から教わった。黒いフレームの眼鏡の掛け方も、洒落ていた。気さくな人で、トレーナー姿でいることが殆どだった。彼女は、可憐な花のように、笑った。知らないうちに、私は恋をしていた。彼女の作品を幾つか見て、才能を思い知る。彼女と私は意気投合し、このまま帰国しないでイタリアにいたいと思った。ヴァレンチーナのクルマはフィアットだった。交通ルール日本とは違う。彼女のクルマで、私たちは郊外へ出かけた。夕暮れが深まっていた。


いつも私はヴァレンチーナと一緒だった。彼女は「スペインへ行きたい」と目を輝かせていた。「チャーオ!」と言って私たちは毎朝会い、「チャーオ!」と言って夜に別れた。イタリア語のチャオは便利な言葉で、「おはよう」にも「こんにちは」にも「こんばんは」にも「さようなら」にもなる。世界の言語の中でもかなり特殊。


イタリアでの私の仕事は、イタリア人の精神疾患の人たちと交流し、現地の精神医療の水準を日本に持ち帰ることだった。重たい症状の人たちとは接しない。かなりの仕事に耐え得る患者ばかりが私の対象だった。現地の精神保健福祉局長とのお付き合いも欠かせなかった。私には莫大なカネが投じられていた。このプロジェクトを成功させれば、日本国内での私のポストが上昇することが約束されていた。


パスタとラザニアとピザとチーズと生ハムの日々だから、日本食に私は飢えていた。ボローニャのスーパーに入っても、味噌は手に入らない。味噌汁と焼き鮭とお漬物が食べたかった。緑茶もない。エスプレッソコーヒーを毎朝毎晩飲む日々。朝食は、バロールという店で摂るのがイタリアの一般。毎朝、近所のバロールへ行く。英語で私は朝食を注文した。遅れていくと、バロールでは美味しいパンが売り切れる。駆け足でバロールに向かう。小学生たちが登校している。


着飾る時には、イタリア人はどうかしているほどとびっきりに着飾る。日本には、そんな人はいない。仮面舞踏会は、イタリアでは当たり前。


イタリア人の文化は、伝統のローマ時代からの古き良きものを大切にしていて、どこか懐かしく、日本のような使い捨てをしない。経済的に日本のほうが豊かだが、それ以上のものをイタリア人は持っている。タバコ一つ見ても、日本では誰もが既成の20本入り紙タバコかIQOSを使うが、イタリア人は手巻きのタバコを器用に自分で作って吸っている。私がIQOSで吸おうとすると「そんなテクノロジーはよくない」と非難する。


たいていのイタリア人は、陽気で気さく、人懐っこい。私がレストランに入っても、店主がこちらの名を聞き、我が息子のように迎えてくれる。歌を唄うことが好きで、女子学生たちが大きな声で唄っている。圧倒的な明るさ。ドイツの哲学者ニーチェはラテン民族のそんなところを好んだという。


第二次世界大戦の傷痕が、イタリアでは今でも色濃く残る。夜になると、戦時中に関する演劇があって、イタリア人は戦争の無惨を受け継いでいる。演劇を観る度に「ここは、ヨーロッパだ」と私は再認識した。日本でも受け継がれているとはいえ、イタリアほどではない。


イタリアで働いていて、ただただ圧倒されることが多かった。


帰国しなければならない前日、ヴァレンチーナは泣いていた。彼女は激しく泣いていた。私も言葉にならなかった。ゆっくり夜が更けていく。彼女は、私にプレゼントをくれた。なぜ日本へ帰らなければならないのか、私には理解ができなかった。相変わらず、彼女は気取りのないトレーナー姿だった。別れは、耐え難い。最後に彼女へ言った言葉が「チャオ」だったのかどうなのか、私は覚えていない。