宮沢賢治は、佛教を信仰したという。


彼の場合、法華経だった。


法華経と呼ばれる経典は、ダンマパダという大陸の僧侶が書いた、仏陀に最も近いとされるもの。日本では日蓮であり、だが日蓮の著作は宗教的にも政治的にも偏って出版されているように思う。


吉本隆明氏は浄土宗、法然を探究し、日本の知識人の間では浄土宗が選ばれることがほとんどだと思う。この場合、佛教は、宗教学からのアプローチとなる。


宮沢賢治の法華経への帰依は、かなり頑固なものだった。そこには、若くして他界した彼の妹の存在があるように思われる。


「佛」という言葉は、《人でありながら人で非ず(あらず)》との意味で、悟った人、を指している。私見に過ぎないんだけど、こゝろの病いの人たちに、「佛」という字を重ねるのは、別に難しいことじゃないような気がする。シュルレアリスム芸術のたとえでは、超人間ほどの意味であり、それでいながら人間でもあるのだから、未来にあってふさわしい人間だとの認識も妥当だと思う。


こゝろの病いを、障害だと捉える欧州の考え方を、アップデートさせる必要があるのかもしれない。


宮沢賢治の法華経への帰依は、度が過ぎたかもしれない。それでも、新し物好きだった彼の気持ちは推して分かる。厳密には、そこに虚栄心があったと思う。賢治は信仰に関して親とも激しく衝突した。あまり穏やかではなかったといえる。


佛教で言う真理とは何か、欧米の哲学での真実ともニュアンスが違う。私たち現代人は、佛教を宗教学から俯瞰するしか手段がない。個人主義が最高度に発達した現代人の私たちは、もはや信仰するほど素朴には舞い戻れない。だから佛教のエッセンスを心理学を通じて濾過するしかなくなっている。


ためらいながらも262文字のお経、般若心経を紐解きたい。佛教の経典は、今や7千種類を超えていて、宗派によっては般若心経を唱えない。言い換えれば7千種類の佛教がある。悟りどころか、途方に暮れる😓


宗派による論争を超えて、とりあえず般若心経を読むのがやっぱり穏当だと思う。