日々、不穏な事件が起こる。


そのアップデートを止めるのは、個々人の問題だと思う。


優しくて良い人を、演じたがる人がいる。


マヤカシは、そんなにもたない。


サルトル、彼は《みんなと一緒に》を推奨した。この点につきカミユは「牧歌的なものへの郷愁」と指摘した。カミユの手帖をよく読むと「奇妙な誤り」と書いてある。


確かに《みんなと一緒に》なにかをするのは優しくて良い人だろう。そこには個人主義の撤廃がある。

 

《みんなと一緒に》するのは、現実味がない。《みんな》とか《フツー》呼ばれるものは一枚岩などでなく、言葉とは裏腹にその思考は間違いなく政治的なものになる。最近、或る政治団体の幹部が、選挙妨害の疑いで逮捕された。彼らは執拗に他陣営の選挙活動を妨害した。


この事例の場合も、当初の美しそうな道徳が、次第に政治的なものへと変遷し、結局、多くの人々に迷惑かけるようになる。


美徳も憔悴すれば政治的なものへ堕落する。


只でさえ、過半数の人々に不当な情景を夢見させてる。


優しいですね、とか、良い人ですね、など、無数にあると思う。偽善のフィルターを通り越し、優しくて良い人ですね…


中途半端なその思考は、やがて《人民》を《裏切る》事態になる。たぶん、一人だけで勝ち誇るのだが、いずれ逮捕されることになる。


様々な詐欺など、典型かもしれない。


党派を組み、その党派ももちろん長続きしない。内ゲバが必ず起こる。


私は、現実を直視したい。大規模な裏切りをするくらいなら、最初から比類のない個人主義であったほうが良いと思う。


美しいことと美しそうなこととでは、違う。


人民のために…?


そんな浅薄では、逮捕されるのが道理かもしれない。余計なお世話は、もうお仕舞いにしたほうがいい。果てしなく広がる夢想や夜想、事件の萌芽はそこにあるのでは?