ChatGPTは、まだ今のところマニュアル通りの反応しかしないと、昨夜、私は書きました。確かに精緻な解答を人工知能は披瀝します。だけど、いかにも優等生の、実際の現場ではあまり効果が期待できない代物です。


今日の新聞朝刊に目を通してみたら、アメリカの警察官の気の利いた対応の仕方が載っていました。


警察にこんな電話が掛かってきました。


「今日は、僕の誕生日なんだけど、祝ってくれる人がいない。ひとりぼっちなんだ」


日本の警察ならカチンときて「ふざけるな!」と言うかもしれない。


ただ、アメリカの警察官は対応が違った。住所をたずねてパトカーで行った。途中で、クッキーと蝋燭を購入。で、彼の家に着くと、名前を聞き、ハッピーバースデーを一緒に歌った。


マニュアル通りの対応ならば、こんなことは起こらない。マニュアルを外れたところにこそ、人間ならではの才気がある。そこに人の温かみがあるんじゃないかな。


私はアメリカ文学にも親しんだけど、O・ヘンリー以来のユーモアとペーソスに溢れている。どこか長閑で暢気なところがアメリカ文学にはある。


このSNS的なブログにしても、ある人々のブログは不自然に《閉じている》。旧twitterでの《病み垢》と同じ。ネット世界でもその人たちは引きこもりをする。


果たしてそれが最善の選択かどうかは各自の判断。


ともあれ、マニュアル通りでは足りないと思う。


人間はそんなに単純ではない。


環境省が水俣病患者のマイクを3分間で消した先の例、あれも予め環境省が決めたマニュアルだった。老いた夫が「痛いよ、痛いよ。と言いながら、妻は、死んでいった」と話す。あのときせめて環境大臣がマニュアルを打破したら、もっと違うニュアンスになったのかもしれない。