フランスの作家アナトール・フランスの『少年少女』を愛読してる。


アナトール・フランスは無神論の小説家で『神々は渇く』が代表作。キリスト教徒(カトリックでもプロテスタントでもいい)、仏教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒の人々でも、アナトール・フランスの小説は楽しめると思う。


まぁそんなことはともかく、ボードレール流の《スプリーン(憂愁)》を感じる春霞の夕焼け空を見ていると、どこか公園の近くのジャングルジムで遊ぶ声、まるで妖精みたいなあどけない人たちの、不思議と若いままの嬌声が聞こえたような気持ちになる。一心不乱に遊んでる、あの少年少女たち。


まるで妖精みたい…三島由紀夫は「まるで人間のようですよ」と他意も悪意もなく綴るんだけど、それではちょっぴり重たいから、私は「まるで妖精みたい」とありのままを書く。


人は病むと時間や空間を認識しづらくなり、錯乱の症状も相俟って記憶力が低下する。記憶が欠落気味になると、解離性障害の症状を呈するようになる。


ムズカシイそんな話はもうよそう。聞くだけ気持ちが重たくなるから。あとのことなら心理学博士にでもお任せしたい。


障害のあるなしにかかわらず、若くして年老い以降いつまで経っても若いままといった矛盾の精神がある。矛盾のこの精神は、生真面目と遊び心が混在し、非常に誠実なパントマイム。踏み外せば…たぶん孤児となるのかもしれない。そうでなければ世界の母親になる。


発達障害というのも、多動性なら世間からは「落ち着きがない」と烙印を押され、さんざん悩んだ挙げ句にどうしたことか哲学者の風貌となっていく。依存症もまた同じです。


ちょっとしたことでつい傷ついてしまう。その傷は、若さの証し。幼さの証し。退行現象はその人ならではの逃げ道、ごめんなさいのひと言もなく無邪気にいつも笑ってる。


いち、にー、さん。いち、にー、さん、繰り返す規則に敏感だからラジオ体操を理解し尽くす。敏感なカラダはしばしば弛緩もし、ぐったりベッドへ横たわる。この仕組みを家族はきっと理解しないから「勉強しなさい」とこうるさい。親心を知らない当人はついつい毒親と口を滑らすヘマをする。


永遠の少年少女たち。恋をしたり、裏切られたり、癇癪起こして泣いている。歌っている小鳥がいつも幸せであるとは限らない。成長を祈る親もないのかもしれない。


孤独と闇と愛想笑いに、乾杯。


際限のない魅力、若いままの子どもたち…作家のこの被造物に、悩みは尽きないのかもしれないが、最果ての月の幻影に、裏切られた横顔の微笑が浮かぶ。傑出した良い人生、気づかれぬよう人々は秘かに憧れる。幼な子の手が揺れている。