日曜の朝から憂鬱です。
私はうつ病というではありません。
いつもの朝のように洗濯し、朝食をひとり作って後片付けし、毎朝の家事としての掃除をします。
一人暮らしなので家事全般をひとり私が行います。
こんな私を友だちは「マメだね」と言うけれど、当方としては当たり前のことを当たり前にしているばかりです。
家事が一頻り終わると、TBSの『サンデーモーニング』を見ます。
中小零細と呼ばれる会社で働く私はかなり真剣に経済評論家やジャーナリストの話を聞きます。
ほとんど「助けて!」に近い感じです。
政治評論家や軍事評論家はさしあたり私には関係がなさそうです。
日曜のこんな朝、暗く憂鬱です。
それでも経済のことをテキトーにやり過ごせば、もっともっと暗い雰囲気になるのでしょう。
実質賃金はずーっと下がり続けてます。
それを日銀や政府のせいにして、政府への不満で終わらせている日本人は多く、自治体などに積極的に働きかけない。
機能不全に陥っている民主主義…チェック機能としての選挙だけを考えている人々は圧倒的多数。
そうした中で学歴格差も経済格差もどんどん広がる。
主要有名大学出身者とそうでない人々の乖離は続くし、それが元に経済格差も当然の成り行きとなる。
大臣を母校から一人も排出できない五、六流大学…大学全入の昨今では倒産の憂き目が近い。
さて、ニヒリズムが蔓延している。
私も個人のレベルでこのニヒリズムと戦ってきたけど、押し潰されてしまう。
自己肯定感がゼロになるならまだマシで、気の毒なことにマイナスになる。
心理学もここでは無力、大した役にも立たない(偏執狂のように心理学にこだわる憐れな人もいるけど)
そこで、文学を頼ってみる。
谷崎潤一郎の『鍵』を読む。
「私は、妻との性愛に、生き甲斐を感じた」
とある。
この男性は、あれやこれやと性愛の考案をし、妻とのマンネリSEXを打破しようと必死。
献身的な妻も、必死。
谷崎潤一郎が何を考えていたのかは分からない(作家は私から見れば所詮は《他人》に過ぎない)
たぶん、谷崎は谷崎なりに、ニヒリズムと格闘したのかもしれない。
で、その最も中庸な回答として
「私は、妻との性愛に、生き甲斐を感じた」
なのだろう。
谷崎の、素朴にして動物的な回答に、ちょっと眩暈を感じる。
貞淑なこの妻は、マゾヒズムからサディズムへと次第に変貌する。
小説にはよくありがちな傾向だと思う。
やがて、妻は夫を犯す、半ば夫を妻は強姦する。
そこで、夫婦の性愛は、完成する。
この結末を読者がどう捉えるか…
「私は、妻との性愛に、生き甲斐を感じた」…
三島由紀夫の『不道徳講座』では「麻薬というのは、行き過ぎ」とされている。
刑法に抵触する。
ところが谷崎の『鍵』では、夫が妻とのSEXの果てに何かを吐き出す。
睡眠薬だと思う。
まぁ、こんな風にして、私は《他人》の小説を鑑賞する。
他人…
個人主義の潮流は、もう決して崩れない。
この個人主義が、ニヒリズムの主な要因だと理解している。
夏目漱石以来の個人主義、都会では蔓延している。
私は、パートナー女性との性愛に、生き甲斐など感じない。
で、家計のやりくりのため、経済の行方を日々、追っている。
《倦怠》…
「退屈は、死よりも辛かった」池波正太郎の『鬼平犯科帳』にはそう記載されている。
ニヒリズムとの共存しか選択肢はなさそうです。