こんにちは。


このGWを元気で過ごしていますか?

不安や悩み事でいっぱいでしょうか?

私も不安ですが、イヤなことをやり過ごしながら、どうにか暮らしています。


さて、今日は、現実と事実、そして夢想の成れの果てとでもいいますか、美について書いてみたいと思います。


芸術家…と耳にしてどのようなイメージを浮かべますか?

シェイクスピアやモーツアルト、ルノアールや萩原朔太郎でしょうか?

なにかしらご立派なイメージがつきまとうのは、芸術評論家と呼ばれている人たちが、底上げしたり気難しいことを述べているからです。大学の文学部などが典型で、仕方ないことなんです。怒っても損するだけだと思いますし、怒るだけの価値を見出すのも困難です。



私は、現実や事実の中にしか美しいものを見出せない性格で、あんまり夢想もしませんし、詩人ボードレールの感じた美についてはどうしても納得できません。彼の『人工楽園』や、ユイスマンスの『さかしま』の中の美、薬物を伴ったそれらが《都会的》だとも思えません。また芸術家のする心中沙汰、情死とも呼びますが、そこに美を見出すことは至難の業でした。


私はただの一庶民です。たとえ《凡庸》とこちらを蔑む人がいても、その相手はたいてい社会的落伍者で、私としては痛くも痒くもなかったりして…


《凡庸》と庶民を軽蔑する人はたぶん《現実に適応できない頭脳》の持ち主なのかも。

世間ではそれを概ね《社会的落伍者》と呼んだりします。


文学には文学なりの《掟》がありますが、その《掟》は《法》の理想でもなく、むしろ秩序を徒に乱すもののようだと私は思います。


多くの芸術に接した人は変わり者とされ、そもそも没個性であったのが個性的であろうとするので、ぎこちなくなりますね。

ムリがあります。


この現実世界に、芸術家の美が果たして存在できるのか、怪しいなぁ。


人々や動物、植物や鉱物などで、現実はぎっしりしています。そこへ芸術家の美が入り込む余地もない。

マンガや一般人による美でひしめいてる。


日本人に限定すれば、現代人は平安時代の人々とさほど変化はないように思います。



私は、一般人による美で、すっかり満足しています。短歌にしても俳句にしても。


高尚な趣味の持ち合わせはなかったりします。