春が来れば思い出す…ではなかった、夏が来れば思い出す、だった。


春爛漫のここ東京、上野恩賜公園は昼から酔っ払いでひしめく。女子も朝からビールのラッパ飲み、たまにはハメを外すのもいい。花より団子。これが平和。陽射しも高くなって、夜が短くなっていく。


上野には日本最古のジャズ喫茶があった。イトウという店。頻繁に私も出入りしていたけど、いつしか閉店に。大きなコントラバスを背負う東京藝術大学の学生たちと一緒になってジャズを聴いた。分厚いガラスの重たいドアを開ければ、鳴り響いてるサックスやらトランペット、パーカッション。西郷さんの銅像を尻目に、私たちは栄光の青春を謳歌していた。当時の私は18歳、有斐閣の六法全書を右小脇に抱え、左手には法学概論の教科書。希望と夢だけしかなかった。敗北は他人に任せて、どこへ行っても自信満々、花の法学生として前途洋々、私は挫折と不幸と破綻を知らなかった。湯水のようにカネを使い、豪勢なレストランで極上の料理を食べ、寿司と鰻重はいつも特上、贅沢の限りを尽くしていた。幸せは当たり前、果てしなく続く幸福。


炎天下の陽射しもやがて傾くように、こんな幸せも続きはしない。季節も大幅に移っていく。夏があれば、冬がある。天真爛漫な笑みが微笑に変わり、微笑が追憶を引き連れてくる。物思いに耽る時間が到来する。陰鬱な夜が来る。新聞のゴシップ記事が有名人の自殺を報じ、ボードレール流の憂鬱に襲われる。そうしてはじめて危機を知る。ドストエフスキーの幾つかの小説が、不吉な預言となっていく。


そういう軌跡を経て、マイルス・デイヴィスのトランペットが理解できるようになる。抑制の効いたあのトランペット。この上なくチャーミングな青年も、オトコになっていく。ダンスの笑いもパントマイムの微笑へ変化する。消え去る運命は、イトウだけでなく、天真爛漫も同様。


だけど悲嘆に暮れても何一つはじまらない。ステップ踏んで快活にならないことには、取り残される。渡辺貞夫の小気味いいサックスは、どこかしらチャーミングで、ブラジルのサンバに通じる音色を奏でる。「ごきげんかい?」そう呼びかけている。冬が終わったから、今の新たな春がある。「なぁ、寄ってかないか?」ジャズの楽しい調べが続く。