イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフの見解(マゾヒズムを逍遥する考え方)は、今や古いのかもしれない。


都会人の多くがセンチメンタリズムに耽溺し、F.サガン他、現代人に矢を放ち反抗している。


野蛮だと思う。


高いところから流す涙くらい醜悪なものもない。高い…閉塞状況であり、病的であり(健やかさに抗う、時として病いそのもの)、子供っぽい強迫観念であり、正論の押し付けであり、社会学的ヒエラルキーへの盲目的な従順であり、自己正当化の果てしない試み。これら美への反抗を、秩序が許すはずもない。


凡庸だろう。


これら高み(にいるつもり)の人々が不幸だとしても、同情を慎みたく思う。


充分に幸せな私たちは、もっと下方にいる。幼馴染の隣りに、仔猫の欠伸のこちら側に、遠慮なくいえばコペルニクス的転回の果ての地球の地上…楽園の中に。


肉体の悪魔…だろうか、性愛の確かな勝利は、自己陶酔の精神の病いとの訣別にこそある。私たちは『美徳の不幸』と『悪徳の榮え』を選択した。マルキ・ド・サド侯爵、この感受性の特権を私たちは享受した。おかげでセンチメンタリズムよりも1000フィート高いところで息づくことになった(社会学的ヒエラルキーの考えに則れば)。ここには世界中の動物たちがのどかに暮らしているし、ありとあらゆる植物の宝庫。


水上勉氏の『ブンナよ、木からおりてこい』は、良かった。


優しく私たちは言うだろう…「可哀想に」と。