快楽は、始まる

瞳から見た彼女の瞳は、美しい一重瞼、彼女のメガネが美を際立たせている


僕は日本橋千疋屋総本店で働いて、毎朝ホイップクリームを拵える

真冬でも半袖のシャツに蝶ネクタイを締めている

淑女と紳士が集うこのフルーツパーラー

グランシェフに教わりながら僕は頻りに仕事する

「マンゴーカレーでございますね?いつも当店をお引き立ていただき、ありがとうございます」


まずまず今日も仕事を終え、霞ヶ関駅のホームへ向かう

昨夜、机の抽斗(ひきだし)からそっとつまみ上げた手紙、駅のベンチに腰掛けて開く

何度も何度も僕は読み返す

彼女はマメに手紙を寄越す

辛いことがある度に、読んでいる


結婚資金、貯めなくっちゃ


店の女子たちから誘われはするものの、微笑んで断っている

誰にも言えずにいるけれど、僕は密かに社交界を夢見てる

そのために、千疋屋で働いている

不意に幸運な出会いがあるのかもしれない


「苺パフェが、ウリなんだよ」

「あら、美味しそう」

自分でパフェを拵えてるのに、まだ彼女に食べさせていないのは、お金が足りないから

「素敵ね」

笑顔の彼女が、滲んで見える

「一流の店だからね」


いつか帝国ホテルに行こう…そう言おうとして我慢しやめた

気が狂ったと思われてしまう


聡子は裏切らない、裏切りを知らない

僕らは病んではいるけれど、愛の名の下、健やかだった

高校生のとき、僕はケンブリッジ大学へ留学した

聡子は聖心女子大学で英文学を専攻している

不自由のない暮らしに思えて、実は辛酸を舐めている

僕らが愛読していた小説家、鷺沢萠は、自殺した

「犬のように、バスタブの前で、死んでいた」と新聞は報じた


「ねぇ、わたし…ううん、わたしたちはこれからよね?」聡子は小首を傾げて微笑んだ

「うん。たぶん」スカートのスリットが僅かにほころんでいるのを見て僕は言う

「これからだよ」グラデーションのファンデーションが艶っぽいから、僕は驚いて言う


あいにく僕にはお金がない

結婚資金がまだ足りない

彼女の手紙が、よく見えない

字が、読めない

「素敵ね」

彼女からの言葉を、そのままに読み返そう

一重瞼の美しさを際立たせている彼女のメガネをお借りしよう