どうしても障害があると体調を崩してしまう。


順調に進んでいても、あるいは微調整しているその最中でも、なぜか体調を崩したりする。個人差があり、個々人によって体調の波も千差万別。


体調が悪くなればそれでかなりのダメージとなって、通学通勤も難しくなってしまう。時間は残酷に過ぎ去っていく。私たちは地平線の最果てに取り残され、いつもの体調の微調整にも疲れてしまう。希死念慮にさえ襲われそうになる。


不調に陥ったら、私はまず頓服を飲む。しばらく様子をみる。そして支援者に電話をかけて体調を崩していることを伝える。できれば具体的に症状を話す。こういうSOS発信は大切だと思う。支援者が医療関係者なら電子カルテに記載され、後日、Dr.の目に止まる。


人や世間では「キチン、キチンと」と言うかもしれない。社会秩序はそのようにして維持される。ところが障害者や難病患者ではそのことが難しい。症状に加えて、家庭内での不協和音も人によりあるかもしれない。ただですら私たちは苦しかったりするのに、その上「キチン、キチンと」とはうまくいかない。症状のほかにも悩み事があるのかもしれない。ムリしないで、さしあたり養生したい。


嵐のような不調がひとしきり去ると、静謐な時間を確保できる場合がある。内省するにはとっておき。状況によって《祈り》もあると思う。こちらも人によって違う。何らかの宗教への帰依もあるだろうし、もっと現実的な親しい人への祈りもあると思う。友人であれ、恋人であれ祈りを捧げ、または自分自身への祈りなのかもしれない。


やがて、朝が来る。


朝になってから振り返る夜は虚ろなのかもしれない。それでも私たちは、歩んでいく。誰へも伝えられないことを胸に秘め、また歩を進める。