久しぶりに会った知人が、かつて私が書いた文学作品の原稿を持っているという。
知人の姓は覚えていたが、名は知らない。忘れている。
Nさんは「大事にしていますよ」と言う。
何年も前の原稿らしい。
題名もわからないし、内容もわからない。
当時、私はなにもプロの物書きを目指していたでもない。
ただ、文学が、好きだった。
「また書いてください」とNさんは言う。
もう書けるはずもなく、プリンタのインクも途絶えている。
そもそも純文学だなんて、売れないし、ある意味よほどのバカでないと書けない。
私の凡庸化は進んでしまった。
拍子外れの個人主義しか持ち合わせもなくなった。
私のような者が、世間には無数にいる。
それにしても、キーボードを飽きもせずに打ち続けている。
「いつか、ね」私はNさんに曖昧な返事をした。
そして近所の大規模な店に行き、プリンタのインクを探し始めている。