マタギの表情がくもった。かれは一目散に、仕留めたはずの獲物に向かって走り出した。

広翔たち先遣隊の兵士も慌ててあとを追った。暗がりに慣れた目とはいえ、広翔の視界は黒一色に塗りつぶされていた。マタギの姿さえもう視覚ではとらえていない。足音と、生きものが放つ拍動のような気配によって辛うじてその存在を感じ取っていた。

遠ざかっていく道の途中で、獲物は再び吼えた。その憎悪に満ちた声は森々と眠りゆく山の中でただひとつ血腥い息吹きを放っていた。あるいは断末魔の叫びなのかとも広翔は思ったが、そんな期待を裏切るような力強い脈動を感じさせた。獲物は傷を受けたことで自分の野生に目覚め、自尊心を奮い立たせて打ち震えているようだった。それは、想像するに、戦場で戦く兵士のそれではなかっただろうか。

マタギの歩度が遅くなり、やがて立ち止った。広翔が彼に並ぼうとすると、固い太い掌で二の腕を掴まれた。手元に引き寄せられ広翔の体はよろめいた。後続の訓練生たちはつんのめり広翔の背中に覆いかぶさった。

「見ろ」

短くマタギが言った。漆黒の闇の中になにか白々と枝葉のようなものが折り重なっている。しかし、はっきりとは見えない。ただ、得体の知れない絶望的な恐怖が、深い闇の奥に蹲っているような気がした。

追跡を諦めて野営地にもどると、分析隊の面々がカンテラの薄明りの中でまだ話に夢中になっていた。

「こんなことが、植生学上あり得るんだろうか」

医師の香坂が疑問を感じているのは、渓谷一帯の植物のことだった。

「この標高なら、ブナ林域になるのが当然なんですよ。なのに、ここにあるのはヒカゲヘゴですよ、あり得ない」

「まったくです。ここは温帯なのかとさえ疑ってしまう。私は、南洋の密林を思い出しますよ。そこの藪からバビルサのような珍獣が顔をのぞかせて、こっちをうかがっているんじゃないかと」

古生物学者の子安がそう言うと、地質学者の宮城が続いた。

「私には、ここが現代なのかさえ疑問です。この鬱蒼とした熱帯の植物、原始的なシダ類の繁茂を見ると、ジュラ・白亜の恐竜時代が想像されます」

植生は熱帯そのものだが、極彩色の鳥の姿も、枝を這う大蛇の姿もなく、森は鬱蒼として、異様な湿気と高温に燻されていた。標高千メートルを超える山中で、この気温と湿度はあり得ないものだった。

「なんか、異様に暑くないですか」

「地熱のせいですよ。このあたりは温泉が地表近くを流れているんです」

宮城が答えた。

「ただ、それだけで説明できる話のようにも思えませんが」

香坂が異論を唱えた。温泉の温室効果で熱帯種が生存を保つことは可能だとしても、それはあくまで人為的に作りだしたものであって、自生するなどということはあり得ないと言うのだ。そもそも種子が南方から飛んで来て、この地に着床すること自体、可能性としてはほとんど、それこそ天文学的にゼロに近いものだ。残る可能性としては、この地が太古からの地殻変動を免れて、当時の植生をずっと維持してきたという仮説は成り立つが、日本列島において、地史学上そのような仮説が唱えられたことはかつて一度もなかった。