夢の途上で ひと息つけば…

夢の途上で ひと息つけば…

ひとみな赴く夢の旅  夢の途上でひと息ついて  旅の途中でみる夢は  どんな思いの宿るやら



頭上に広がる
果てしのない青空を
ひとめ見て
あるひとは
生きる悦びに
胸躍らせる

また別のひとは
「死にたい」とつぶやく
何が この差を生み出すのか
この深い懸隔の谷間の奥底に
音なくうずくまっているのは
どのような怪物なのか

それでも
不幸というものは
死んでも消えない
不幸のねもとの 火の種を
もみ消し
踏みつぶし
根絶やしに するまでは
みずからの手で
自身の力で

まだ見ぬ絶景などは
無限にあって
まだ聴かぬ名曲は
無尽蔵
まだ知らぬ名物料理も
星の数ほど
胸躍る映画なら
数知れず
心豊かな 信頼できる
人物だって 本当は
至るところに
わんさと 隠れている

生まれてきた以上は 必ず
笑う権利は『保証付き』
どんな貧乏の中にても
日ごとに笑うことは
自分次第
 そう

ちいさな 生きる悦びを
自分ひとりの 宝石を
見つけて
捉えて
摑まえるのは
あなた次第

誰かではなく
あなたの中に
あなた自身の
思いがあれば
いつでも笑顔で
生きられる

 

あなたの胸に
その気があれば
ありさえすれば

 

 

 

 

 

 


いまもラジオを 聴いている
ひとつの音を 聴いている
世界中には 無数の音が
無限の電波が 飛びちがう
ひとつを択んで 聴いている

ひと日の休みに 家に居る
もしも例えば 外に出て
汀にひとり 佇みて
水平線をば 見はるかし
遠い夕陽に 別れを告げて
あまたの想いを 響かせながら
帰宅するのと 較べるならば

家居とそと出の ふたつの私
如何に異なる ふたつの道か
わたしの影は 無限にあれど
択び抜きたる これなる私

今日も悔いなく 行けるよう
晴れた心で 行けますように
そして未来の 私のもとへ
真珠のような たからもの
無上のしあわせ 贈れるように
正しい道が 見えますように





 

 


みんな誰もが 生まれたときは
泣くことから まず始まった
やがて笑いを 覚えると
世界は 笑いに包まれた
歳経るごとに 笑顔は減って
日ごと世界は つまらなくなり
ますます孤独に なっていく

これは どうしたことでしょう
歳経るごとに 笑顔は減って
悲哀の色が濃くなるなんて
妖精たちの 暮らしのように
笑って踊って 愉しく暮らす
そんな生き方 できないものか

死の国にある 人の眼からは
こちらの国は 青春の国
どんな病の 老人なれども
はためく心臓 熱い血潮を
胸に戴く限りにおいて
唯一無二なる 青春の人

二度と見られぬ ときのひと
いのちのあかりを 灯すひと
そんなに大事な ひとなのに
こんなに価値ある 時なのに

 

 

 

 


 

 


わたしは夏が 苦手です
さはさりながら
わたしの中には 数拾年の
夏の記憶が 冬眠中で

「あの日も こんなに
 暑い日だった…」
ただ このひと言で
わたしは翔る
秘密の扉が 開かれる

はげしい嵐が 吹き荒れて
去りにしあとの 天空の
洗ったような 早朝の
澄みわたる 蒼いたたずまい

深い夜空を はるかに遠く
伝わる都会の 喧噪が
寄せては返す 潮騒のごと
やさしく歌う 夜明けの響き

市立図書館の 窓辺に座って
まばゆい戸外を 眺めていると
学生服着た私が ふいに
立ち現れては あわや視線が
合いそうになる
魔法の日射し

嫌いな季節の 筈なのに
夏の妖しい 胸騒ぎには
いつも私は うろたえる
答えは 夜空の中にある
果てなく わたしを包み込む
星の光の 中にある

 

 

 


 

 


わたしは馬車に 乗っていた
どうやら夜でもないらしく
なんとか周りは 見られるものの
しかし何とも ほの暗い
馬車は 狭く心細い道を
どこまでも とぼとぼと進む

道の左右は いずれにも
見上げるほどの 塀が立ち
その頂上は 遠く霞んで
おぼろな程まで 高いのだ
おかげで こんなに
昼なお暗い

どこへ 向かっていくのだろうか
いつまで 走っていくのだろう
わたしの眼には 先頭の
御者の姿も 定かに見えぬ

しょんぼりと 為すすべもなく
意気消沈して 座っていると
突然 かなり向こうの前方に
光の帯が 眼に映る

 

それは 道の左の塀の
ほんの一部に 隙がある
そこだけ ぽっかり空いている
そこから 光が洩れている
ゆたかな 光の泉となって
まばゆく涯なく 溢れ出す

あっけに取られて
見詰めていると
たちまち光は 過ぎ去りぬ
あとは全てが 先程どおり
漆黒の 塀のあいだを
やはりとぼとぼ 馬車はゆく

それは 堅牢な左右の塀が
ほんの およそ1メートルほど
ぽかんと欠けていたのだった

その刹那
塀の向こうに 広がっていた
緑したたる 世界のすがた
天国のような 高貴な天地
魔法のごとき その
のどかな広がりに
わたしは ひととき
夢みるごとく 陶然と
時を忘れて 心を寄せた
あれは如何なる 里なのだろう

考えてみれば あれこそが
わたしが今いる この世界
ひとで溢れた この世なのだ

あの1メートルの 刹那のあいだ
わたしに 何ができるのだろう
わたしは 何が残せるだろう
これなるいのちを
かなえるために
そのために

 

 

 

 

 

 

 


 

どうしたものか このごろは
笑う機会も 減ったかと
ふいに気付いて
悩んでみたり

単純な作業を 繰り返すうちに
いつしか心が ミミズのように
すっかり干上がって しまいそうに
心あやうく なるときは

私は心の 緑なす
楽園の旅に 出かけゆく

そこなる国は さまざまな
遠くや近くの 過去たちの
思い出ばかりで できた街
幼い頃の友だちや
懐かしい 場所の賑わい
どこかで垣間見たような 路地や
名前すら 知られぬ道路
夢の中で 通りがかったような
ひっそりとした街並み

いまの私よりも若い 両親が
幼い私と 日常のやり取りをしている
そんな姿を 私は
その傍から じっと眺めている
そうして過ごしているうちに いつか
心は すっかり明るくなって
 
この世界全体が 柔らかな
懐かしく 優しい光に
満ち充ちて
あつい思いと
澄みわたる心に
この胸は いっぱいに
膨れ上がっていく

こうしてひとたび 思い出の
不思議のいろに
染まって いくならば
何もかもが
心わきたつ 姿となって
みるみるうちに 光りだす

それならば
今日という日の 哀しみに
たとえ涙が あふれてきても
時が過ぎれば
ものみなすべて
思い出いろに 染まりゆく

とどのつまりを いうなれば
今日のひとひの 哀しみさえも
みんな すべてが
思い出のたね

いつかまた
疲れ果てたり
心が風邪を引いたなら
また 出かけよう
思い出番地の 街かどへ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いづれか 時の至りせば
やがて月へと 帰るべき
不思議の人で あるかのように
この星で私は 今日もまた
訪問者として 日を過ごす

一見してみた ところでは
他とは 少しも渝らぬけれど
実は私は 人知れず
旅をするひと

ところが 竟に私には
遙かな星へと 戻るが如き
機会は畢竟
ないかも知れぬ

なれども ともあれ
私は つねに
如何なる時にも 旅のひと

見えざる彼方に こがれゆく
ひとり 旅ゆく訪問者

 

 

 

 

 

 

 



 


 

芥川龍之介氏いわく、ある人物の読書遍歴はその人物の内面の歴史であり、延いては彼の実人生そのものを物語る、ひとつの影であり、奇妙なるアナロジーとなり得るものではないかと。この考えに従えば、芥川自身の最後の読書は如何なるものであったか、との疑問は非常に興味深い処ではある。

 

翻って私自身の読書量の最盛期と言えば、恐らく高校生の時分である。生徒の頃には、それこそ無限に近い時間の集積が自分の背後に控えてくれているもののように思われたものであるが、ひとたび社会へ出ると想定以上に読書時間には制約がかかり、またその一方で書籍購入に際しては想定以上に自由度が齎されるので、その結果としてみるみる蔵書は膨れ上がり、さて数十年と経過してみると、わが書物は家中到る処に怪物のように占拠している始末である。改めてこの量を眺めてみるに、此等全てを読破する為には、少なくとも3回は生まれ変わらなくてはならないようである。
 

これは何処かで読んだような気がするのだが、世には達人というべき御仁が居るもので、例えば街の書店などへ行くと、自分の出逢うべき書物が突然眼前でぼんやりと光りだして、眼を惹くということがあるそうな。または不意に背後から『こっち、こっち』などと云う囁きが響いてくることすらあるらしい。こうなるとほぼ妖怪である。

昨今では勉学を本分とする学生たちでさえ、月に一冊も本を読まない者が多いらしい。またこの傾向は米国でも同様だそうだ。ところが或る人物など、読書などは全くの時間の無駄であると断言するのが居た。しかし一冊の書物に接するのは、対談をするのに似ている。ならば、そもそも人との対談が知的営為である以上、読書が無意味であろう筈が無いではないか。

小林秀雄氏が晩年に、しみじみと語っておられた言葉を想い出す。彼は自宅で安楽椅子に寛ぎながら、ゆったりと蔵書たちの背の文字の羅列を眺めていると、何だか無上に心地よい湯船にひたって居るような幸福感に包まれると述懐されていた。

書物とは私には、教師であり親であり、兄であり妹でもあり、または、いとしい恋人であり師匠でもあり、はたまた超凡なる仙人でもある。
 

不肖私にしても、蔵書の背文字を同じく眺めてみるならば、ひとつひとつの本の背ごとに、思い出があり物語がある。此等の書物たちは当然、購入された日付の順に時系列で並んでなんか居やしないのだけれども、その一冊を手に取り表紙を眺めるだけで、忽ちそれを入手した日のことを想い出す。たとえそれが古本として購入したものであってもである。こうしてみると、やはり蔵書というものは私自身の人生の記録であり、物語であり歴史なのである。されば冒頭に記した通り、芥川氏の言は全く至言であると言ってよいと感ずる。考えてみれば、これ程にも大切な親友や師匠や恋人たちに囲まれて、彼らと常に同居しながら日々を暮らしている私なる者は、全くもって最高の幸せ者だと云う以外に無い。

 

 

 

 

 

 


 



なんでお前は 生きるのかって?
生きてる限りは 毎日毎日
新たなひと日が 生まれるじゃないか

自分にとっちゃあ
この旅の 長さとくれば
今日が 最長記録であるし
日ごと日ごとに
未開の土地を
せっせと拓いて ゆきながら
じりじり 進んでいるわけだ
言うなればこれは
孤独な冒険 あるはまた
自分自身への
尽きることなき 課題かも知れず

いち日が 終わる頃には
いち日の姿も すっきりと
わたしの心に 入り込み
いつしか ふくよかな
よき思い出いろに 染まりゆき
言い知れぬ
心の滋養の 一部となりて
心の淵の 深みへと
閑かに果てなく
降りたってゆく

こうして僕らは 深みを増して
ますますいよいよ 豊かになって
いかねばならない 旅なんだ

そんな 不思議の宿命と
深い意味をも 懐きつつ
旅は 緑の風のなか
今日も 続いていくのです
陽光 (ひかり) と空とを 友として




 

 


ひとは一般に『青春』と言えば、およそ何歳ぐらいの人をイメージするだろうか。
彼らが大人や大人社会へ向ける視線というものは、とても鋭敏であり複雑な感情を秘めていることが多かろう。いわく反感、憤懣、嘲笑、羨望、それは一見矛盾に満ちた様々な情感のるつぼである。斯様なまでに繊細で鋭敏な神経の持ち主たちが、一体どのようにして凡庸な大人になってしまうのか。

大人社会への反発心は、決して捨てるべきではない。

『大人なんかになりたくない』などと叫びつつも彼らは、やがて平々凡々たるその大人種族の標本のような存在に成り下がる。

どうしてそんなに簡単に少年の心をかなぐり捨てて了うのか。大人になりたくないのならば、ずっと少年のままでい給え。なんなら生涯少年で居ればいいではないか。

少年の心、万歳である。大人なんて、ちっとも偉くも何とも無い。私は大人であることが恥ずかしいくらいだ。少年よ、願わくば己を卑下するな。

少年よ胸を張れ。自分が若く幼いことを、誇り給え。

こんな時、想起されるのは例のPRBの作品だ。

ジョン・ブレット1856年の作品『石割る人』。
ここに描かれた少年もまた、自分が特権の時代の最中に生きて在る者であることを、これっぽっちも自覚して居ない。いや寧ろ、自分が課せられた退屈至極な作業にうんざりしている。

ところが彼を取り囲む季節や、一望されるなだらかな丘陵の風景がこれ全て、他ならぬこの少年の身分を心憎いまでに表現している。即ち彼の『青春』という特別な時代である。ところが彼はその特権に飽き飽きし、今にも投げ出してやろうかとでも言うかのような風である。

そうなのだ。彼ら少年たちという種族は、自分が少年であることにうんざりしているのだ。そして数十年の時間を経たころになって、ある時ふと彼は、記憶の彼方に霞んだ嘗ての自らの姿の中に永遠の世界の反映を、その片鱗を見ることになるのだ。

仕方がないので私としては、死ぬまで少年で居ることに決めた。