どうしたものか このごろは
笑う機会も 減ったかと
ふいに気付いて
悩んでみたり

単純な作業を 繰り返すうちに
いつしか心が ミミズのように
すっかり干上がって しまいそうに
心あやうく なるときは

私は心の 緑なす
楽園の旅に 出かけゆく

そこなる国は さまざまな
遠くや近くの 過去たちの
思い出ばかりで できた街
幼い頃の友だちや
懐かしい 場所の賑わい
どこかで垣間見たような 路地や
名前すら 知られぬ道路
夢の中で 通りがかったような
ひっそりとした街並み

いまの私よりも若い 両親が
幼い私と 日常のやり取りをしている
そんな姿を 私は
その傍から じっと眺めている
そうして過ごしているうちに いつか
心は すっかり明るくなって
 
この世界全体が 柔らかな
懐かしく 優しい光に
満ち充ちて
あつい思いと
澄みわたる心に
この胸は いっぱいに
膨れ上がっていく

こうしてひとたび 思い出の
不思議のいろに
染まって いくならば
何もかもが
心わきたつ 姿となって
みるみるうちに 光りだす

それならば
今日という日の 哀しみに
たとえ涙が あふれてきても
時が過ぎれば
ものみなすべて
思い出いろに 染まりゆく

とどのつまりを いうなれば
今日のひとひの 哀しみさえも
みんな すべてが
思い出のたね

いつかまた
疲れ果てたり
心が風邪を引いたなら
また 出かけよう
思い出番地の 街かどへ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いづれか 時の至りせば
やがて月へと 帰るべき
不思議の人で あるかのように
この星で私は 今日もまた
訪問者として 日を過ごす

一見してみた ところでは
他とは 少しも渝らぬけれど
実は私は 人知れず
旅をするひと

ところが 竟に私には
遙かな星へと 戻るが如き
機会は畢竟
ないかも知れぬ

なれども ともあれ
私は つねに
如何なる時にも 旅のひと

見えざる彼方に こがれゆく
ひとり 旅ゆく訪問者

 

 

 

 

 

 

 



 


 

芥川龍之介氏いわく、ある人物の読書遍歴はその人物の内面の歴史であり、延いては彼の実人生そのものを物語る、ひとつの影であり、奇妙なるアナロジーとなり得るものではないかと。この考えに従えば、芥川自身の最後の読書は如何なるものであったか、との疑問は非常に興味深い処ではある。

 

翻って私自身の読書量の最盛期と言えば、恐らく高校生の時分である。生徒の頃には、それこそ無限に近い時間の集積が自分の背後に控えてくれているもののように思われたものであるが、ひとたび社会へ出ると想定以上に読書時間には制約がかかり、またその一方で書籍購入に際しては想定以上に自由度が齎されるので、その結果としてみるみる蔵書は膨れ上がり、さて数十年と経過してみると、わが書物は家中到る処に怪物のように占拠している始末である。改めてこの量を眺めてみるに、此等全てを読破する為には、少なくとも3回は生まれ変わらなくてはならないようである。
 

これは何処かで読んだような気がするのだが、世には達人というべき御仁が居るもので、例えば街の書店などへ行くと、自分の出逢うべき書物が突然眼前でぼんやりと光りだして、眼を惹くということがあるそうな。または不意に背後から『こっち、こっち』などと云う囁きが響いてくることすらあるらしい。こうなるとほぼ妖怪である。

昨今では勉学を本分とする学生たちでさえ、月に一冊も本を読まない者が多いらしい。またこの傾向は米国でも同様だそうだ。ところが或る人物など、読書などは全くの時間の無駄であると断言するのが居た。しかし一冊の書物に接するのは、対談をするのに似ている。ならば、そもそも人との対談が知的営為である以上、読書が無意味であろう筈が無いではないか。

小林秀雄氏が晩年に、しみじみと語っておられた言葉を想い出す。彼は自宅で安楽椅子に寛ぎながら、ゆったりと蔵書たちの背の文字の羅列を眺めていると、何だか無上に心地よい湯船にひたって居るような幸福感に包まれると述懐されていた。

書物とは私には、教師であり親であり、兄であり妹でもあり、または、いとしい恋人であり師匠でもあり、はたまた超凡なる仙人でもある。
 

不肖私にしても、蔵書の背文字を同じく眺めてみるならば、ひとつひとつの本の背ごとに、思い出があり物語がある。此等の書物たちは当然、購入された日付の順に時系列で並んでなんか居やしないのだけれども、その一冊を手に取り表紙を眺めるだけで、忽ちそれを入手した日のことを想い出す。たとえそれが古本として購入したものであってもである。こうしてみると、やはり蔵書というものは私自身の人生の記録であり、物語であり歴史なのである。されば冒頭に記した通り、芥川氏の言は全く至言であると言ってよいと感ずる。考えてみれば、これ程にも大切な親友や師匠や恋人たちに囲まれて、彼らと常に同居しながら日々を暮らしている私なる者は、全くもって最高の幸せ者だと云う以外に無い。

 

 

 

 

 

 


 



なんでお前は 生きるのかって?
生きてる限りは 毎日毎日
新たなひと日が 生まれるじゃないか

自分にとっちゃあ
この旅の 長さとくれば
今日が 最長記録であるし
日ごと日ごとに
未開の土地を
せっせと拓いて ゆきながら
じりじり 進んでいるわけだ
言うなればこれは
孤独な冒険 あるはまた
自分自身への
尽きることなき 課題かも知れず

いち日が 終わる頃には
いち日の姿も すっきりと
わたしの心に 入り込み
いつしか ふくよかな
よき思い出いろに 染まりゆき
言い知れぬ
心の滋養の 一部となりて
心の淵の 深みへと
閑かに果てなく
降りたってゆく

こうして僕らは 深みを増して
ますますいよいよ 豊かになって
いかねばならない 旅なんだ

そんな 不思議の宿命と
深い意味をも 懐きつつ
旅は 緑の風のなか
今日も 続いていくのです
陽光 (ひかり) と空とを 友として




 

 


ひとは一般に『青春』と言えば、およそ何歳ぐらいの人をイメージするだろうか。
彼らが大人や大人社会へ向ける視線というものは、とても鋭敏であり複雑な感情を秘めていることが多かろう。いわく反感、憤懣、嘲笑、羨望、それは一見矛盾に満ちた様々な情感のるつぼである。斯様なまでに繊細で鋭敏な神経の持ち主たちが、一体どのようにして凡庸な大人になってしまうのか。

大人社会への反発心は、決して捨てるべきではない。

『大人なんかになりたくない』などと叫びつつも彼らは、やがて平々凡々たるその大人種族の標本のような存在に成り下がる。

どうしてそんなに簡単に少年の心をかなぐり捨てて了うのか。大人になりたくないのならば、ずっと少年のままでい給え。なんなら生涯少年で居ればいいではないか。

少年の心、万歳である。大人なんて、ちっとも偉くも何とも無い。私は大人であることが恥ずかしいくらいだ。少年よ、願わくば己を卑下するな。

少年よ胸を張れ。自分が若く幼いことを、誇り給え。

こんな時、想起されるのは例のPRBの作品だ。

ジョン・ブレット1856年の作品『石割る人』。
ここに描かれた少年もまた、自分が特権の時代の最中に生きて在る者であることを、これっぽっちも自覚して居ない。いや寧ろ、自分が課せられた退屈至極な作業にうんざりしている。

ところが彼を取り囲む季節や、一望されるなだらかな丘陵の風景がこれ全て、他ならぬこの少年の身分を心憎いまでに表現している。即ち彼の『青春』という特別な時代である。ところが彼はその特権に飽き飽きし、今にも投げ出してやろうかとでも言うかのような風である。

そうなのだ。彼ら少年たちという種族は、自分が少年であることにうんざりしているのだ。そして数十年の時間を経たころになって、ある時ふと彼は、記憶の彼方に霞んだ嘗ての自らの姿の中に永遠の世界の反映を、その片鱗を見ることになるのだ。

仕方がないので私としては、死ぬまで少年で居ることに決めた。

 

 


 

 

哀しみは
あなたを 閉じ籠める
そうして
昏い迷路から 出られずに
虚しく 果てなく
さまよい続けることになる

そんな時には ほら
空を見て

そこには
果てなく続く
見えない道がある
それは 心の中まで続いている

風が優しく
あなたを包んでくれ
白い雲は 親しく穏やかに
いつの日にも
微笑みかけてくれる

そんなふうに
あなたも また
温かく和やかな
微笑みを 貰うためには
そっと 視線を上げて
空を見上げて みればいい

自然の
底さえ知られぬ
優美さと 典雅さとに
眼を 差し向けて
我を忘れて みればよい


例えば あの
見上げる大樹が
そうであるように
海も大地も 緑も河も
それらは あなたの生涯よりも
遙かに永く 生きている
 あなたは
ほんの小さな おさなごです

世の中に 絶望したり
淋しく吐息を
洩らしてみたり
孤独の淵に あえいでみたり
疲れ果てて
自暴自棄になったり
それらは 見えない迷路です
空を 見上げてごらんなさい

あなたは
すっかり忘れているけど
あなたは
確かに翼を持っている
ただ 気付いていないだけ

ゆえに 真実ありのまま
包み隠さず 申しますれば
心の翼を いっぱい広げ
深く果てなき世界への
畏敬と憧憬を 力に変えて
大きく羽ばたきさえすれば
いつでもあなたは 翔べるのですよ




 



いつの間にか 窓の外には
風の精たちが
秋の花束を
胸いっぱいに抱えて
やってきていることに
ついぞ 気付きもしないまま
のんきに過ごしていたようで

ごめんなさいね
風の精たち
さあどうぞ おはいり下さいな

まったく いまの人たちは
移ろう季節の いろどりなどは
どこ吹く風かと いう気色

日がな一日 窓を閉め切り
エアコンを使い続けているし
日がな一日
手許の電話を眺めては
飽きるようすも
ないのですもの

自然から
離れてゆけばゆくほどに
しあわせからも
遠く離れてしまうのに

当然至極の
こんな ことわりひとつすら
世間はまるで
全て忘れてしまったようす
なんと不幸なことでしょう

ごめんなさいね
風の精たち

 

 

 

 



気が付けば
  いいえ
気が付く人も 付かないひとも
 誰だって
今日という名の
 いちにちは
たったひとりの 自分独自の
唯一無二の 作品なんです

そんな 珠のような作品を
日ごと日ごとに作り続け 生み出し続けて
やがて一生涯という
大きな作品にするのです

だから どんな人でも アーティスト
自身のひと日を生みいだし 創り出しゆく芸術家
孤独な淋しいアーティスト
気が付く人も 付かないひとも

わたし独自の 色あいにして
ひと知れぬ 夢や想いを詰め込んで
ひそかな悦び 哀しみ抱いて
今日も すてきな作品めざし
どんな出来ばえに なるかしら

 

 

 



 



こちらが本気で
生きないことには
世界にしたって 当然ながら
本来の姿を
示してはくれぬ

本当の 世界の姿を
垣間見ようと するのなら
こちらの 生きゆく姿勢が
問いかけられる

それが前提となるからには
歩む足にも 心にも
キリリと気持ちの
ほとばしる

生きるからには
生命をかけて

 

 


どんな見方を してみても
世界のすべてを 見て知って
味わい尽くして いくことなどは
とても叶わぬ ことゆえに
せめて周りの ことがらの
親しく身近な ものごとくらいは
心豊かに 鄭重に
優しく大事に 扱うべきか

この世で私が 知れることなど
世界の中の 塵のひとかけ
あるか無きかに 過ぎぬもの
なれば身近な 人や物さえ
よくよく見れば なかなかに
意味深長の 含みの見ゆる

 

特に私に ゆかりも深く
現れ出でたる ものたちだもの
私のいのちと 変わるなく
無二の同志と こころにかけて
共に並んで 進んでいこう
こころ愉しく 歩いていこう