告知
いつも宮崎キャンプの時の茨城新聞のスポーツ面を送ってくださる食肉事業協同組合の笹本サン(感謝)。2月10日にカシマスタジアム売店の抽選があり、今年もメインスタンド側8番で出店されることが決まりました明日のACLから出店されます
私のタイトルバックの写真をPOP広告に使って下さるとのこと、楽しみです
茨城県外の鹿サポにはなかなか入手できない茨城新聞。カシスタ行った時、開場前にスポーツセンターで読む位しか機会がない人がほとんどだと思います。
東京と大阪に住んでいる人は、茨城新聞東京支社または大阪支社でバックナンバーを購入できます。東京支社には何度か行きました。正確な日付がわからなくても、アントラーズサポーターであることを告げ、優勝翌日の朝刊とか優勝記念特集の載っている新聞をお願いしますと言えば、本社から取り寄せてくれますよ
(大体3ヶ月以内なら可)
茨城新聞東京支社 03-3552-0505
東京都中央区八丁堀3丁目25-20 JR八丁堀ビル2F
(JR京葉線または地下鉄日比谷線「八丁堀」駅下車、徒歩18m)
茨城新聞大阪支社 06-6344-4605
大阪市北区曾根崎新地2-1-15 長滝ビル3F-32
横浜情景(7)ナッチャン(名波選手ではありません)@大桟橋
「ナッチャン?お笑いコンビの?」「それはウッチャンナンチャン!」
1人ボケツッコミでスミマセン
相方が先週風邪で寝込んだので、2週間ぶりにトンビの餌付けに行きました。
大桟橋に見かけない船が。。。双胴型高速フェリー【ナッチャンWorld】(10,721㌧)です。青森と函館を結ぶ津軽海峡フェリーの船で、全長112m、定員774人。
今年12月に東北新幹線が新青森まで延伸するのを記念して「青森の使者」として、昨日約1年ぶりに横浜港に寄港しました。19,20の両日、船内で青森観光・物産展を行います。
航海速力は約36ノット(満載時65㎞/h)。21日は久里浜に異動して午前と午後の2回、100分のクルーズを行い、日本最速のフェリーを体感してもらうそうです。
船内見学無料なので立ち寄ることに。入場待ち70分のアナウンスにビックリ
船尾から見ると普通のフェリーですね。
インターコンチを正面から見ることもあまりないのでパチリ第3管区海上保安庁に世界最大級の巡視船「しきしま」(全長150m、6500㌧)が碇留してます。ホテルと船の間のカマボコのような白い建物は、01年威嚇攻撃後自爆沈没した北朝鮮工作船を展示してます。
入場待ちしていると、下船グループの中に知った顔が『回顧録H山形戦』で紹介した、商船三井本社に勤務している鹿サポ夫婦ですキックオフパーティーには入れなかった話など立ち話している内に、順番飛ばされましたところが順番飛ばされたことが功を奏してキリ番に『4900番目のお客様です』津軽【スチューベン】とエコ袋をプレゼントされました昨日は5000人乗船したとのこと、100番ごとにプレゼントしたの空き箱です。
津軽ぶどう【スチューベン】についてはhttp://www.budomura.co.jp/shopping/item-F1.html
エコ袋は畳めて重宝しそうです
乗船すると、1Fの車両置場が物産展の会場になってました。「うまし、うつくし、北のまほろば?」奈良でも聞いたことのあるキャッチコピーですね
ねぶたのお囃子が流れています
物産展終了の5時まであと90分、乗船待ちの間にも「売り切れました」のアナウンスが聞こえていました。目玉商品の【大間のホンマグロ】は残りあと1個でした。
なめたかれい2枚入り1パックで500円に値下げ(地元のスーパーじゃ、一回り小さい1枚で780円)即買いです
なめた買っちゃったからなぁ。。。(地元のスーパーじゃ1枚980円)
メバルこの大きさ3匹で1000円即買いです(地元のスーパーじゃ1尾で980円)
3階の客室層へ。エコノミーシートで1人6000円です。航空機みたいですね。
最前部と窓際はパブリックシートで、サロンになっています。
左舷からは大桟橋【鯨の背中】(芝生貼りの屋根)越しにマリンタワーが見えます。
右舷側のサロン。
横浜に入港する船からしか見れない景色です。
4Fはエグゼクティブシート(1人8000円)2人用と4人用シートになっています。
ラウンジには豪華マッサージチェアーが10数基置かれてました。鹿サポ夫婦は当然赤色を選び【4連覇】のポーズ
船尾から屋外に出ると、一昨日青森から積んできた雪が溶けずに残ってました。
マリーン・ルージュが行き交い、横浜らしい景色です。
下船すると夕日が美しい。ずいぶん日が沈むのが遅くなりましたね。乗船前にトンビの餌付けした象の鼻(赤矢印)が見えます。
帰宅して早速メバルを調理します。ウスメバルは煮付けが美味しいのは承知してますが、ナメタカレイを煮付けにするので、今回は塩焼きに。
身は絹のようになめらかで白く、脂が適度にあって、噛み締めると上品な甘みが口中に広がります。最近刺身でも見かけ、寿司ネタにもなってます。カサゴ系なので背びれやエラ蓋にトゲがあるので、調理用ハサミで散髪します。
毎度おなじみ、魚の顔を正面から撮影します。別名「春告げ魚」。
好物(4)本カワハギのキモ和え@萬歳楽極寒しぼりたて
木曜日に、石川県の鶴来(つるぎ、現白山市)の小堀酒造から萬歳楽蔵出しのしぼりたて生酒が届きました。長旅した酒を一日休ませ金曜日に呑むべく、いい刺身を買いに行きつけのスーパーに行くと、ドンピシャのタイミングでこの魚が
いい型の本カワハギです。一昔前までカワハギの肝和えは船釣りする人しか知らない味でした。この大きさだと、かなりの肝が期待できそうです似た魚でウマヅラハギも最近よく見かけます(エチゼンクラゲを食べる魚として近年話題に)本カワハギより値段が安いのですが、若干アンモニア臭い。この魚を捌くのは簡単、ザラザラした硬質の皮は簡単に剥けます顔まで剥いだのでちょっとグロですが
期待通りの肝の大きさこの魚を釣るのはかなり難しい。胸びれ・背びれを煽動させヘリコプターのように釣りエサに近づき、突き出たおちょぼ口でエサをかすめ取るのでアタリがほとんどありません。 釣りの世界で「かわはぎ師」と呼ばれるとかなりの達人です。おちょぼ口のアップを撮ると、エイリアンみたいでかなりグロですね
一日休ませた【萬歳楽しぼりたて】で頂きます。昔は酒蔵でしか飲めなかった1年に1度、酒造りの季節だけの、濾過も火入れもしない、生まれたての鮮度を楽しむ生のお酒です。まだ微炭酸が残っているので、口に含んだ時のプチプチ感がたまらないですね
鶴来の小堀酒造には、04年秋に会社の旅行で金沢に行った時、2日目の自由行動の日に酒蔵見学に行きました。知り合いが小堀幸穂社長と懇意にしているので、話を通しておくとのことだったのですが話が伝わってなく、バツの悪い思いをしましたが、会長小堀甚九郎ご夫妻がもてなして下さいました。築230年を越す【御上(おえ)の間】という、囲炉裏ある居間で小一時間、紅茶を3杯も点ててくれたのです。会長は何と下戸で紅茶を点てるのがマイブームとのことで、とてもゆったりとした時間を過ごさせてもらいました。古き良き造り酒屋の空気がそこには流れていました。32年の長きに渡って小堀酒造の蔵を預かった現代の名工、中居清杜氏が引退する最後の年だったこと、「夢のしずく」を買って帰ったことも印象に残っています。
ようこそ萬歳楽本店へhttp://www.manzairaku-honten.com/yookoso.html
「蔵元からの手紙」より【極寒しぼりたて】について
http://www.manzairaku-honten.com/tegami/kuramoto-gai.html
中居清杜氏の人となりについては、広島【富久長】HP内コラム【ささびと屋】H19度分「酒界に60余年」からH20度分「夢のしずく」に渡り、詳細に執筆されています。
「夢のしずく」http://www4.ocn.ne.jp/~fukucho/special/sasabito/sasa-205.htm
新化への歩み(4)~2月12日付茨城新聞より
【FW 大迫勇也】~2けた得点目指す
「ボールを持ったら、まずゴールを見る」。練習試合のホンダロック戦で、大迫勇也はゴールへの最短距離を考え、得点イメージから逆算したプレーを貫いた。貪欲に前へ前へ。後半14分、ゴール前の混戦から得点した。それでも、今季から背番号9を付ける19歳の視線は先を見据えていた。「決めるべきところはたくさんあった。もっと動いて、もっとチャンスに絡まないといけない」。
全国高校選手権の最多得点記録を塗り替え、鳴り物入りで加入したのが2009年。「あっという間だった」と振り返った1年は、極めて中身の濃い時間だった。第2節新潟戦でプロデビューし、第3節広島戦ではリーグ初先発。第5節FC東京戦でJ初ゴールを決め、序盤戦は日本代表の興梠慎三を押しのけてレギュラーに座った。
結局、「ついていくのがやっとだった」と明かすように、徐々に心身ともに疲労がたまりプレーに波が生じ、中盤戦以降はベンチスタート。だが、高卒新人で22試合3得点と貴重な戦力になり、昨年12月に日本代表にも初選出された。
年始は母校・鹿児島城西高で高校生に交じって体を動かした。家族や友人からねぎらいの言葉を掛けられるたび、強く決意したという。「頑張らなければならない」
有意義なプロ1年目を過ごしたとはいえ、「自分らしさを出せなかった」という思いが強い。チームに慣れようとするあまり、個人で仕掛ける回数が減り、シュートもできない試合もあった。ボールを持ったらゴールを見るのがストライカー。「勝負の年」と位置付ける今シーズンは「得点は2けた狙いたい」と決めた。
ホンダロック戦後、めったに個人名を挙げないオズワルド・オリベイラ監督が、「大迫は若手の中では成熟してきている」と期待を込めた。それを聞き「本当ですか」と喜んだ後、「でもまだまだ」と引き締めた。目指す高みはもっと先にある。182㌢、70㌔。鹿児島県出身。
(松本隆吾)
(おわり)
新化への歩み(3)~2月11日付茨城新聞より
【DF 新井場 徹】~右もできるDFに
合宿9日目の10日、午前中の練習が終わると、新井場徹はタッチライン近くにボールを集めた。ゴール中央に人を立たせクロスを送った。それも慣れた左サイドではなく右サイドから、納得するまで何本も。「W杯がある今年は、(内田)篤人も苦しいシーズンになる。当然、オレは右のことも考えないかん。」求められる役割を考え、全力を尽くす。「いろんな意味で意義深かった」と振り返る2009シーズンが、一回り成長させた。
04年にG大阪から移籍して以降、一貫して不動の左サイドバック。08年は負傷の小笠原満男に代わってキャプテンマークを巻き、連覇を決めた最終節の札幌ドームで優勝シャーレを高々と揚げた。
しかし昨年序盤、新加入の朴柱昊にレギュラーを奪われ、ベンチ生活を余儀なくされた。
リーグ戦出場300試合を超えるベテランは「精神的につらかった」と認める。出番のなかった遠征帰りはコンディション調整に苦しみ、出場機会を待つベンチ選手の気持ちも分かった。チームが失速した夏場にポジションを奪い返し、「試合に出ない時期は貴重な経験ができた」。
昨季の経験を無駄にせず、「今年にどう生かせるか」とテーマを掲げた。代表とクラブの過密日程を強いられる右サイドバック・内田の疲労度を考慮し、万が一のために準備する。新加入でポジションが重複するジウトンにも、「優勝するためには戦力の上積みは必要。いい刺激にしたい」と慢心せず、再アピールを誓う。勝利を最優先に考えているからこそ、行動に迷いはない。
例年とは違う心境で臨む今季。宮崎合宿中、体を追い込むトレーニングでは、「いじめすぎや」と愚痴りつつも、戦術練習が始まれば、ひときわ大きい声で味方に指示を送る。存在感抜群の関西人は、「長いスパンじゃなく1試合1試合を大切にして、最終的にはトップにいたい」と誓う。182㌢、74㌔。大阪府出身。
(松本隆吾)
新化への歩み(2)~2月10日付茨城新聞より
【DF 伊野波雅彦】~速さと強さ求めて
1月下旬、伊野波雅彦は都内のトレーニング施設で黙々と汗を流した。昨年、プロ選手やスポーツチームの体作りをサポートするウイダー社とパートナー契約を結び、港区にある同社の「トレーニングラボ」で1日4時間、練習に取り組んだ。通常ならチーム始動に合わせて体を軽く動かす期間だが、「もっとパワーアップしたいから」と、筋力強化に当てた。
伊野波は昨季のリーグ最少失点の守備陣を支えた。2006年にFC東京でプロデビューし、08年に鹿島へ移籍。主力として1年間戦ったのは昨季が初めてで、「夏ごろは感じたことのない疲労がたまり、試合でも全然体が動かない時期があった」と明かす。午後10時には体を休め、栄養士のアドバイスも受けるなど細心の注意を払い、秋以降はキレが復活。1年で大きな成長を遂げた。
しかし本人は冷静に受け止めている。「(去年)力を出せたのは7割くらい。残り3割は出し切れなかったと思う」。そう思うとオフ期間も休んでいられなかった。筋力強化のテーマは「スピードを落とさず体の厚みを増す」ことだ。
センターバックとしては小柄な方だ。それだけに持ち味のスピードに加え、より一層の強さを求めた。トレーニングの効果は確実に表れ、首、胸、腕が太さを増し、体重も約2㌔増えた。「(スピードに)乗っている感じ」と手応えを話す。チーム始動後の体力測定では軒並みトップの成績で、宮崎合宿でも際立つ動きを見せている。
今季は同じセンターバックに韓国代表の李正秀が加入。間違いなくポジションを争そうであろう存在について、「僕と岩政さんだけでは1年間戦えない。(大岩)剛さんも含めて4人で力を合わせたい」と語る。だが向上心を包み隠さない姿を見れば、レギュラー死守への強い自覚がうかがえる。伊野波が言う「残り3割」とは果たしてどんな力か。2010年のピッチに答えがある。179㌢、73㌔。宮崎県出身。
(松本隆吾)
新化への歩み(1)~2月9日付茨城新聞より
現状からの進化と新しいものを求める造語の「新化」は、2010年シーズンのチームスローガン。リーグ4連覇やアジア制覇を目指す今季、新化を掲げる4選手を紹介する。(松本隆吾)
【MF 青木 剛】~黒子に徹して走る
頭の中がすっきりする気分だったという。昨季終盤、スタメンを外された青木剛は、ベンチからピッチを眺め、一つの答えにたどり着いた。
「鹿島には試合を決められる主役が多くいる。自分は『黒子』。人を輝かせるために、走ればいい。」
昨季の後半、第30節千葉戦から最終節浦和戦まで5連勝で3連覇を決めた。その間、青木は中田浩二にスタメンを奪われ、ベンチを温め続けた。90分以内でのクラブワースト記録の5連敗中、オズワルド・オリベイラ監督から「調子が悪い」と思われ、皮肉にもこの交代劇が上昇気流を生んだ。
2005年からレギュラーに座り、ハードワークが求められるオリベイラ監督体制下では絶対的なボランチだった。「自分に何が足りないのか」。練習後、柔和な表情で車に乗り込む姿は消え、顔はこわばり人を寄せ付けない雰囲気が漂っていた。
落ち込むとの感情とは違う。先発を外された現実と培った自信の間で必死に折り合いを付けていた。あらためて成長してきた過程を思い返した。
もともと、極度のマイナス思考の持ち主。日ごろから苦しい練習でも「つらいとの思いを頭から排除する」。自己啓発本も読み、すべてをプラスに転換させて成長につなげてきた。優勝を決めた瞬間、「3連覇に貢献できたのは幸せ」と思うと同時に、「求められるものは変わらない。強みを生かす」と切り替えた。
一昨年は日本代表に初選出され、昨年の宮崎合宿は代表から外されて合流。シーズンを迎えるに当たり、「自分にないものをねだっていた」と認める。だが、今年はチームトップクラスの運動量と球際の強さで、中盤を走りまくる。宮崎でもふっ切れたように、ピッチで汗をかく姿がある。
黒子に徹するのは、開き直りでなく再確認だ。「走ることは得意」。スタメンでもサブでも走り続ける。主役を輝かせるため、チームの勝利のために。183㌢、75㌔。群馬県出身。背番号15。
新戦力(5)~2月8日付茨城新聞より
【MF フェリペガブリエル】~浮沈の鍵握る「天使」
2度の大けがを乗り越えた元U-20(20歳以下)ブラジル代表。正確なボールタッチに支えられたスピード感ある軽やかなプレーで得点を狙い、羽の生えたような動きから、「天使」の愛称を持つ。同じポジションのMF本山雅志が長期離脱する中、この男の活躍が浮沈の鍵となる。
かつてジーコもプレーしていたフラメンゴ(ブラジル)の下部組織に所属し、2005年のU-20W杯は主力として5試合に出場。バルセロナのメッシ擁するアルゼンチンに準決勝で敗れたものの、チームを3位に導き、将来を嘱望される選手の1人だった。
だが、成長が見込まれる貴重な時期に、2度の前十字靱帯断裂という大けがに見舞われた。06年に右足、07年には左足を負傷。1回目の断裂は、「それまでとてもいい形でプレーできていたので、すごく悲しかった」と、直後の2日間は現実を直視できなかったという。
プレーできない悲しみを晴らすには、リハビリしかない。通常6ヶ月かかるところを4ヶ月で完治。2回目の断裂でも「1回目の経験を生かして前向きに復帰を目指した」と治療を続けた。離脱期間が長かったため、07年のナシオナル・マデイラ(ポルトガル)では14試合2得点だったが、母国に戻った08年のポルトゲーザで31試合10得点。完全復活を果たし、完全移籍が決まった。
本山の前半戦絶望に伴い、すでにオズワルド・オリベイラ監督は、「代役はフェリペガブリエルで考えている」と断言。開幕からスタメンが見込まれ、本人も「早く日本のサッカーに慣れ、鹿島で数多くのタイトルを取って、1日でも長くここにいたい」と意欲をみなぎらせる。
合宿では要所で右足を巧みに使って技術の高さを見せ、前線の選手らしく得点感覚も確か。開幕に向け、「試合を楽しみにしていてよ」とニヤリと笑った。176㌢、68㌔。ブラジル・リオデジャネイロ州出身。24歳。背番号11。
(松本隆吾)
ノザの故郷~笠間市稲田
先に笠間焼の酒器の話をしましたが、笠間といえば笠間焼・笠間稲荷の他に、日本最大の御影石の産地で有名です。野沢選手の実家はここの石材店です。(野沢石材店に行ったタクトの話だと、入り口にボールを蹴り分ける的がついた石の壁が置いてあるそうな)
1月14日にNHK『小さな旅』で笠間市稲田が紹介されました。
笠間はJR常磐線友部駅から水戸線に乗り換え、2駅目です。
山の中腹に、東西8km南北6kmに渡って石切り場が点在しています。
100年以上かけ70mの深さまで採石が進められてきました。更にこの下には、深さ数千mに渡って稲田石が眠っているとされています。
発破した瞬間です一瞬のうちに400tもの石を山から切り出します。(昔の仮面ライダーで、最後に悪者がやられて爆発するシーンの撮影はここで撮られたものが多いそうです)
石を垂直に切り分けるラインを見つけるのが親方の仕事です。
何本ものクサビを息を合わせて打ち込んで行きます。その時水が一滴一滴様々な大きさのグラスに落ちて作り出すような音まるで楽器が奏でるような調べです。
高い音は打ち始め。割れるにつれて低い音に変わっていきます。
最後の一振りで石が見事に垂直に切り分けられました。
石切り場を歩くと、古代の遺跡群の中を歩いているような錯覚にとらわれます。
稲田石は白御影とよばれるようにその白さが特徴です。色調がきれいで柄、組織が均一であること、硬く新鮮でつやがよく出ること、耐久性があることから、全国著名な建築・橋・神社寺院に使われてきました。
明治時代から日本の建築を支えてきた稲田地区の石職人たち。誇らしげに胸をはり、颯爽と、かつて自分たちの石で築き上げた自慢の橋を渡っています。
6年かけて6800tもの稲田石を使用して、明治44年に完成しました。(東京オリンピックで上に高速道路が無粋にかぶさり、悲しいですね)
昭和49年に完成した最高裁判所。品位を表したいと、外壁に白く輝く稲田石が使用されています。(国会議事堂には稲田石は使われていません。あまりにも大工事なので稲田の採掘場全部無くなってしまう、という当時の理由で広島県の議員石が使われています。稲田石は外溝に使われています)
いたる所で稲田石が町並みを彩っています。
農家の石垣です。100年以上前のものだそうです。
校庭の二宮金次郎さんも
笠間市稲田小学校。ノザの母校です。卒業生が寄贈した石臼で、子供たちが育てたもち米を使い餅をつきます。
石切山脈の頂上で年に3度、山の神祭り。安全と繁栄を祈ります。
外国産の安価な石に押され、現存する採石を営む業者は10社になりました。
石と共に生き抜いてきた男たち。
NHK様、内容端折り、画像も順番変えてスミマセンところで気になる方がお1人。。
稲田石材商工業協同組合の理事にも名を連ねているノザのお父上。かなりの職人気質と聞いておりますが、このお方じゃなかろうか
ノザに似てません
― 小学生時代(稲田小学校少年団)
サッカーを始めたのは2年生からです。ずっと野球をしていたので、その後も野球をするんだと思っていたのですが、親から聞いた話だと、兄がサッカーを始めたので、僕も一緒にサッカーをするようになったようです。稲田小学校の少年団はあまり強くないチームでした。昔、交替選手がおらず11人で頑張る「頑張れキッカーズ」という少し現実的なマンガがあったのですが、稲田小もまったくその通りでした。勝てないんだけど、みんなで頑張っているという感じで。監督はスパルタで厳しい人でしたが、技術があって上手かったということを記憶しています。そこで練習をして、家に帰ると、サッカーの経験がまったくない父が待っていて、そこでもパスやドリブルなどの基礎練習をさせられました。毎日毎日、サッカーばかりでした。個人的には市選抜、県選抜に選ばれました。地域選抜に行くと、アントラーズジュニアの選手がいました。みんな上手いんですよ。もう手に負えないというか。敵わないなあ、と思っていた記憶があります。
― 中学生時代(稲田中学校→鹿島アントラーズジュニアユース)
3年生に兄がいたので、そのまま中学校の部活に入りました。稲田中も稲田小からの持ち上がりだったのでそんなに強くありませんでした。僕は当時フォワードで出ていたのですが、身体が小さかったため、1年生の頃はなかなか厳しかった記憶があります。この頃、県選抜でアントラーズの選手たちと仲良くなったんです。みんな上手いし、プレーしていると楽しくって。この人たちと一緒にサッカーがしたいと言う気持ちが強くなって。それでアントラーズのジュニアユースに入りました。自宅からは車で1時間半の距離だったのですが、毎日、親から送ってもらいました。やっぱりアントラーズのジュニアユースはすごかったんです。圧倒的でした。みんな基礎が出来ているんです。それまではボールを持つとドリブルだったのですが、しっかりとパスを回すというサッカーとガラッと変わってしまったんです。俺、やっていけるのかなあ、って思っていました。ですが、指導してくれた藤代監督はひとりひとりに丁寧に教えてくれる熱い監督だったんです。ここでしっかり基礎を学びました。この監督との出会いがなければ、僕はここまでになっていないと思います。
― 高校への進学
ユースにはすんなりと上がれました。家を離れて、寮に入ることになったのですが、サッカーだけを考える生活が僕には良かったので、あまり気になりませんでした。
― 高校生時代(鹿島アントラーズユース)
1年生の時は3年生に曽ケ端さんがいて、クラブユース選手権で準優勝しました。対戦相手で覚えているのはガンバです。すごかったんです。大黒さんがいて、二川さんがいて。ボールが見えませんでしたよ。2年生からトップの練習に参加させてもらいました。ジョルジーニョやレオナルドがいた時代でした。ものすごい選手じゃないですか。一緒にボールを蹴ってもらえるんですか? ってくらいでした。ただ、その中でも、僕は自分のサッカーのことだけに集中していました。3年生の時にトップの試合に出場させてもらいました。ああ、これがJリーグなんだ、と思ったことを記憶しています。その後、ジーコに呼ばれたんです。リオのCFZに行って見ないかって話をされたんですね。僕はそれまで海外に行ったことがなかったですし、サッカー王国ブラジルにはすごく興味がありましたから、2ヶ月間行かせてもらいました。ここではすごい経験をさせてもらえました。ブラジルは本当にサッカーが一番なんだな、やはり日本はサッカーが認知されていないんだな、って思いました。夜、寝ていても、どこかからサッカー中継のアナウンサーの声が聞こえてくるんです。うるさくて眠れないくらいに。どこかが優勝すると、花火が打ちあがるし。毎日がサッカーばかりでした。プレイヤーもサッカーしかなくて、子どもの頃からプロとはなにかを教えられているような環境でした。日本では何でも買ってもらえますが、ブラジルの子どもは何かを買うために頑張っているんですよね。そんな環境だったのですが、試合にも使ってもらえて、サンパウロの大会に出させてもらったんです。その大会は大きな大会で、プロへの狭き門だったんです。みんな真剣勝負で、ピッチにペットボトルや石とか飛んでくるし。こんなところで戦っているんだから、世界一にもなれるよな、というイメージがありました。
契約はブラジルに行く前に決まっていました。その時のことはあまりよく覚えていませんが、とにかくサッカーだけをしていけるという喜びはありました。
― プロになれた一番のポイントは?
段階を踏んでここまで来たんですが、やはりアントラーズに来たのが大きかったと思います。サッカー漬けになる日常にいて、本当にサッカーしかやってきませんでした。それが良かったんだと思います。
08年11月SHAPE 豊田英夫氏取材
好物(3)燗酒@寒い日の夜
寒い日が続きますねこういう日の夜は魚を焼いて日本酒で
愛用の【卓上型ミニかんすけ】です。金沢で酒蔵見学した際、衝動買いしてしまいましたチロリは錫製です。錫(スズ)は古来から水の浄化・解毒作用があるとされ、イオン効果が高いので、酒がまろやかになりなります。陶器にお湯を張り、チロリを差し、櫻の木枠に入れて卓上に置きます。1~2分で飲み頃の42℃になり、飲み頃の温度をずっとキープしてくれるのがいい。
この容器は蓋付きなので、酒を燗しても香りが飛びません。また熱伝導が非常によいので、湯せんですぐにお燗することができます。
今日の魚はスーパーで買った鰰(ハタハタ)。80年代に急激に漁獲量が減り、92~95年に全面禁猟しました。その甲斐あって、今では首都圏のスーパーでも鮮魚で出回るように。塩焼きで頂きます。
そして鰊(ニシン)。自分は福袋は買いませんが、鰊を買う時は白子かカズノコか、ワクワクします
これはとっくり芋といいます。味も粘りも、長芋とじねんじょの中間の特性を持ち、すりおろしても変色しません。北海道芦別の小田良助さんから送ってもらっています。
酒器はカシマスタジアムでもらった笠間焼。燗酒には手に馴染みます
笠間と言えば野沢選手の故郷ですね。ノザが25番時代、度重なる故障に苦しんでいる時に『俺の膝の皿(だったか骨だったか)も笠間焼のように頑丈だったらいいのにな』と言ったことが記憶に残っています。