「あれ、聡さん、温泉はどうします?」
寧子の書類ケースを取ってきた聡を見て健悟が声を掛けた。
「ああ、俺はいいや」
「温泉くらいじゃ感染はしませんよ?」
「いや、自分のほうの心配。大丈夫そうだけど、昨日は東京から運転してきたから一応多少疲れてるし、湯あたりしたりしたらもっと疲れそう。部屋も温泉なんだし悪くないみたいだから、今夜はこっちに入っとくよ」
「そうですか、すみません、明日はもうちょっと僕運転しますね」
「ありがとう。まずは風呂行っといでよ。君は温泉行っても大丈夫なんだよね」
「はい、今一通り薬飲みましたし。じゃ、幸太郎君、行こう」
「はい」
健悟は、食休みー、もうちょっとしたほうがいいかなー、でもこれ以上遅くなるとねー、と、誰に言うともなくわけのわからない節をつけて歌いながら荷物をまとめてでていった。幸太郎も笑いながらそれについていく。どうも健悟は昼間の歌合戦の分のテンションが残っているなあ、と聡は苦笑した。そして、寧子の書類に集中しだした。
幸太郎と健悟は大浴場に行ってすぐ体を洗ったら、何種類かある浴槽をいろいろ試して回った。ゴールデンウィーク直後の月曜の夜、ほかに客は数人しかいなかったから遠慮なくうろうろできたのだ。
「幸太郎くーん、そろそろ露天風呂行ってみない?」
「あ、はーい」
楽しいねえ、楽しいですねえと言い合いながら外に出る。丁度東の空に満月が浮かび、海に光が反射して一筋まっすぐに白んでいた。
「うわあ…」
夜の海を見たことなかった幸太郎が感嘆の声を上げる。健悟も見入ってしまったまま黙って湯船の中を海に近いほうへ進んでいく。露天風呂の上の東屋のひさしから覗き込むと、皓皓とした月光で夜空が明るかった。東の奥は熊野市街、女風呂に隠れているが西の向こうはおそらく新宮市街、北側は熊野の山影、南はさえぎるもののないどこまでも続く夜の海。目の前の空間の、前へ、そして上への無限の広さを思いやって、幸太郎は自分の体が浮き上がるような感覚を覚えていた。
「こんな景色があるんだ…」
幸太郎が湯船に立ったまま360度見回してつぶやいた。月の海がはっきり見える。普段より月が大きく見える。柔らかな黄みなどない、鮮やかな白い光。
健悟は、少しの間幸太郎が呆然とするのに任せた。それから、座ったら、と促した。幸太郎は素直にそのまま湯に沈んだ。
「なんか、いいもの見ました…夜空ってすごいですね」
「やっぱり消灯時間厳しかったりするから?」
「はい…というか、夜は自習時間になっているから、外に出られません」
ふと、幸太郎はみんなはどうしているかな、と思った。今の状況がつらいのは僕だけではなかったけれど、僕は一人でみんな置いてきたんだ。施設は、問題行動のあった高校生以上の男子のほとんどが出て行った上、事件を知った親族に引き取られていった子も多かったから、かなりさびしくなっていた。現に幸太郎のいた6人部屋も、今は中学生3人だけで使っている。幸太郎は職員にもほかの子どもたちにも頼られていたせいで、ずっと息苦しかった。傷害事件の後はそれがさらに厳しいほどのプレッシャーになった。丁度被害者にも加害者にもなりうる年齢だったから、警察官の対応も人毎に違って応じるのに苦労した。そのうち、対応が違うことを観察されていることに気がついて、警察官全員を警戒することになってしまった。
そうか、そういうのが抜けなくて、最後に切れちゃったんだなあ。
「ねえ、幸太郎君さ、機械とか好き?」
「え?はい」
唐突な質問だ。
「あのさ、結構指先器用だよね。今日箸づかいとか見てて思ったんだけど」
「あ、はい。図工美術技術家庭、全部好きですし」
実際、簡単なものなら施設の備品を直したりしている。もともと、僕は理系なんだと思っていた。数学も好きだし理科も好きだ。コンピュータも好きだから、施設においてある子どもの共用パソコンも、メンテナンスはほとんど自分がしていて、その合間にネットを見ていて『善き死のために』のHPにも行き着いた。
「企業でね、中学卒業した子対象で将来の機械工作なんかのプロに養成してくれる企業内学校があるところがあるんだ。寮もあるし給料も出る」
そんなところがあるのか、と幸太郎は思ったが、言いたいことは即座にわかった。
「そこにいったらっていう提案ですか?」
「もし普通の高校に行きたくなかったらね。費用面で普通の高校に行くのをためらってるでしょ。人の面倒になるのがいやとか」
少し図星だった。
「ちょっと違うところだと自衛隊にもそういうところがあるんだけれど、まあそれよりはダイレクトに機械のほうが好きそうだからね。いずれにせよ望めば大学に行くこともできる。企業が支援してくれるんだ」
あまりに話が良すぎて嘘くさい。そう思ったが、もしそんなところがあるなら、という気持ちもある。
「僕の知っている人に、その制度で育ったっていう工員さんがいるんだ。すごいよ、表面なでただけであと0.5mm削るとかわかるんだって」
工作以外にもいろいろ設計とかもあるらしいんだけど、よくわかんないから、そこは調べないといけないけどね、と言う。
「今すぐ決めなきゃいけないってことじゃないけど、まあそういう事情なら、明日死んじゃうのはやめてみてもいいんじゃないかなあ」
健悟が気楽な口調で言う。幸太郎が少し反発を覚える。
「だって死んじゃったらもう考えることもできないんだもん」
反発しながら、これは言ってはいけないということを思いついてしまう。あなただって、自殺しに来たんでしょうが。
幸太郎が黙り込んでいるので、健悟がそろそろ上がろうか、と促す。もっと海を見ていたいと思ったし、話の流れから一緒に行きたくない気もしたが、素直にはいと言った。
浴衣を着て外に出ると、健悟が屈託なくコーヒー牛乳!といってブリックパックを買ってくれた。そして片隅に卓球があるのを見て、なぜこんないいホテルにもあるんだ!とうれしそうにいいながらラケットを幸太郎に渡してきた。