美紗緒がとまどったような声を出す。反射的な反発もあるが、それを上回る困惑。否定ではない。基本的には回転の速い美紗緒が一瞬自分を見失った。

「でもまあ、死ぬって決めちゃったんなら仕方ないけどさ!そういう意見もあるって覚えておいてね!」

健悟が調子を変えて小さい声ながら明るくいう。美紗緒は困惑から逃れられてほっとした。急いで話題を変える。

「これ誰の曲ですか?私、ピアノ習ってたけどクラシックばっかりが多かったから」

「これ?坂本龍一と久石譲の神曲集だよ」

「え?…あ、本当、よく聴いたらこれラストエンペラーの曲…!」

「知ってる?」

「ええ、テレビで見ました。最初のシーンからすごく怖かった…」

「わかるなあ、あの、静かに水と血が入り混じっていくところとかね」

「…健悟さん、なまなましいです」

「はは、ごめーん。美紗緒さんも寝ちゃっていいよ。多分もたれかかる形になっても寧子さんも幸太郎君も怒らないよ。夕日になったら起こしてあげる。見たいよね」

「はい。眠くなったらそうさせていただきます」

「うん」

それからしばらく車内は沈黙が続いた。美紗緒は起きているが何も話さない。普段の美紗緒はあまり話しをしないほうだ。特に、年の近い男性と仕事以外で話しをすることはほとんどない。女性の友達とも年に数回あって話す程度だ。それが、今日初対面の健悟とずいぶんプライベートな話しをした。そして今黙っていても居心地は悪くない。静かに流れるピアノをメインとした音楽。堤防にさえぎられるがずっと見えている海。なんだか不思議だ、と美紗緒は分析することを放棄した。そして、浅い眠りに入っていった。


聡がふと気づいて腕時計を見ると午後5時38分28秒だった。今の看板…ここ紀伊長島町か。ああ、そういえば判例で出ていたのここなんだなあ…長島って地名多いなあ…三重に入ったときもあったし…長い島かあ…長嶋より王のほうが声とか話し方好きだなあ…俺渋くないからうらやましいのかなあ…。

そこまで取り留めのない睡眠の延長の状態で頭が動いていて、唐突に晴れた。完全に目が覚めたようだ。

「おはようございます」

「おはよう」

「日没までもうちょっと間がありますから、それまで寝てていただいてもいいですよ」

「いや大丈夫。君こそ寝なくていいの?」

「僕睡眠時間短くていい人間なんです。というか、食事も、カロリーメイトとか、少なくてもいい。医者って不健康、の典型ですね」

「それじゃあ日本の勤め人は大半不健康ってことになっちゃうよ」

苦笑して体を立て直す。みると幸太郎が窓枠にもたれ、美紗緒はそれにやや寄りかかるように寝ている。シートベルトがあるからぶつかることはないだろう。寧子だけは起きていて、展望台で買った志摩についての本を見ていて、聡が起きたのを見てにこりと笑いかけてきた。聡は少し会釈して話しかけた。

「何の本です?」

「真珠の養殖と真珠のタイプ、それでできる芸術的な宝飾品の本」

「…志摩らしいけど、盛りだくさんですね」

「最後のカテゴリーが多いから、宣伝みたいなものね。でもきれいだわ」

聡も笑い返して前に向き直った。買っておいたアクエリアスはぬるくなっていたが半分ほど飲んだ。

「変わらなくていい?」

「あ、それはいいです。ただちょっとだけトイレ行きたいんで次のコンビニいいです?」

「うん、ん、あと1キロくらいであるんだね」

「ナビって便利ですよねえ」

健悟が反対車線にあったガソリンスタンドと併設のコンビニに車を入れる。健悟と寧子が車外に出て、聡は給油して車を見ているといって残った。幸太郎と美紗緒もドアの開閉で目を覚ました。幸太郎が美紗緒のハンカチに驚く。わたしもよっかかっちゃってたし、気にしなくていいの、といいながら、恐縮する幸太郎から美紗緒がハンカチを返してもらう。少し寝ぼけ眼の2人は、なんとなく卵型の童顔が似通っているからか、姉弟のようでほほえましかった。多分最期に一緒に居る人間だと思った親近感が2人に対する感情を好意的にしているんだろうな。聡はそんなことを思ってこの期に及んで自己分析する自分に苦笑した。

「おはよう。今、熊野まであと1時間くらいだよ。健悟君コンビニのトイレに行った。行くなら行ったら?ついでに飲むものとかほしかったら買っておいで」

それから1時間は、夕日に染まる海を見ながらずっと車は静かに走っていった。幸太郎は、ずっと窓の外を見ていて飽きなかった。熊野市街に入った頃には残照ももう残っていない頃になったが、次第に闇の色に近く変わっていく水平線と空の色は、妙に胸を締め付けた。この世界の向こう側がどうなっているのか、あの光の涯には何があるのか。僕はまた感傷的になっている、とこっそりと恥ずかしくなった。

市街を抜けたところに今日泊まるホテルがあった。


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