「なんで?」
「僕、施設の子どもなんです」
「え?児童養護施設?」
「そうです」
「…死別?」
すこし聡の声が変わった。美紗緒はその慎重さに、プロの声だな、と思った。
「いえ、弟が両親の虐待で死んだんで施設に預けられて、そのまま両親行方不明です」
「…いくつから?」
「4歳なんですが…それまでの記憶がないんです。一度小学校の卒業と同時に父方の祖父母に引き取られたんですが、やっぱり無理だとまた施設に入りなおしました」
「施設、何歳までいられるの?」
「一応高校までいられますが、問題が起きちゃって、中三までになりました。去年、児童養護施設で児童が児童に性的いじめしていたって問題になって、そのせいで職員傷害事件が起きたところです」
「あ、滋賀の事件か」
「そこです」
幸太郎は、昨日最後に別れた少女の白い夏セーラーの姿を思い出す。幸太郎が新しい施設に移って中高生の部屋に加わったときから、伝統のように幸太郎も年長者の自慰を手伝わされた。断れば施設で孤立して、集団生活に向かないといって中学で施設から出なくてはいけなくなるかもしれない。強姦されないだけまだましだとも思って我慢していた。施設の職員もうすうす知っていて、いじめはいけないとだけ何度も繰り返していた。ただ、問題が日常化して事件にならないせいで手をつかねているようだった。いじめって言葉は便利だよな、と思っていた。ほかに行くところはないし、誰も助けてはくれない、ほかのところもここと変わらないことは、東京の施設のことでわかっている。だから何も言わなかった。
いじめの件が公になったとき、幸太郎がそこに入所していることはみな知っていたから、中二の夏からは、施設での生活に耐えることに学校でのいじめに耐えることが加わった。幸太郎は自分では年少者に何かさせることはしなかったし、すくなくとも同輩以下がそういうことをしようとしたら基本的にはとめてきた。でも、幸太郎もそういうことをしているのだという偏見を持たれた。そのなかで、幸太郎を公然とかばったのが、同じクラスで同じ学級委員だった折原佳奈子だった。折原がいるから学校に行こうと毎朝思った。しかし、彼女も幸太郎のことを信じただけで何も根拠はなかった。そして、「加害者ではない」ことは信じていたが、「被害者だった」かもしれないということには思い至っていなかった。
『菅野君は知らなかったんでしょう?菅野君がそんなことするはずないもん』
そう言って、佳奈子はいじめについて報道されても、傷害事件が明らかになっても態度を変えなかった。でも僕は、君にいえないようなことをしていたんだ。誰にもいえないような、思い出すだけで自分を殺したくなるようなことを。殴られるのがいやだから、施設から追い出されるのがいやだから、いや、年上の連中に気に入られていたほうがいろいろ有利だったから…。僕は汚い。援交で売春をする連中と同じなんだよ。
「まあ、いじめの件で慣れた職員がみんな移動になって、施設が荒れて、僕たちに当り散らしていた職員が闇討ちされたって言う顛末だったんですが、それでもう施設が縮小されることになったんです」
「…高校は、どうするの?」
「行けないかもしれません。まあ、もう死ねばいく必要もなくなるんですが」
「金銭的理由?」
「主には、そうです」
美紗緒は、幸太郎の一見しつけのよさそうな様子と生育環境の悲惨さの差に驚いた。義父はそれでも美紗緒を女子校しか許さなかったとはいえ短大まで費用を出してくれたのだ。ただ、ほかの3人は、幸太郎がそれだけの理由で自殺を決めたのではないことを見抜いていた。幸太郎も実際の、少なくとも潜在的な被害者で、そのために自傷傾向があったのだろうと。
「本当は、自殺しなくても、っとも思うけれど…僕には言えないな」
「え、それはまだすねをかじっているから?」
「もうかじってません!というか、うーん、今はかじっているのか」
健悟は芝居がかった様子で首を回した。
「えー、僕いくつに見えますか?」
「20歳」
「え、私と同じ年くらい…24」
「いやもうちょっと、26」
「僕は…職員の一番若い人たちと同じくらいかな、22」
「…若く見られてるなあ、26です、寧子さん正解です」
「いやあ、若く見えるもん、俺最初学生だと思った」
「うーん、この春まで身分的には学生だったから、間違いではないんですよね。医学部で、博士行ってました」
「えっ!?」
「医者?」
「医師免許あります」
「エリート!?」
「…健悟さん、お金かかってるんですねえ」
「まあ、そうですね。なんですが、臨床経験があったほうがいいってんでこの春から病院に勤めようとなったところ、去年の暮れに病気が見つかりまして」
「…病気、ですか」
「そう。まあ、出身大学の病院で気楽といえば気楽なのと、治験と実験的治療をさせろってことで引き換えに病院費用は格安でいいんでそれが救いですが」
「治験?」
「医薬品の開発などに伴う臨床的検査。まあ、悪く言えば大体安全とわかったから最後に人体実験してみましょうということ」
「聡さん、身も蓋もないなあ…まあそうなんですが」
「どこ?」
「脳です。脳腫瘍」
一瞬、沈黙が車内を覆う。健悟は気にしないかのように話を続けた。
「まあ今はずいぶん技術的にも進歩していて治る確率上昇中なんですけどね、種類によっては全摘成功して転移なければ全快もありうるし。でも僕の種類だと、5年生存率は悲惨だし、このまま進んでったら再手術はほぼ確実だし、そうしたら機能障害とか記憶障害とか怖いし、今でも放射線治療とか化学療法結構厳しいし…」
今化学療法の中休み期間なんです、と大げさにため息をついて見せた。
「ちぇえって、感じですよ」
4人とも、なんといっていいかわからない。
「いやあ、今頃彼女と一緒に病院勤務のはずだったんですけどねえ」
「え、彼女、医者?看護師?」
「医者です。2歳年上、もう働いてましたけどね」
「年上なの?いいじゃない。今どうしてる?」
「別れました。んで、今僕の入院中の病院で病理医やってます」
「…いい彼女、だね?」
「ですねえ。俺がわがままいうと、彼女と同期の先輩が僕の治療スタッフに入ってるんでその場にいなくてもホットラインで連絡が行くんですよ。で、即お説教。もう、別れたと思えないくらいですね」
「それは、彼女、まだ付き合ってるつもりなんじゃないでしょうか?」
「かも」
「それは多分ないですねえ。でもまあ、そういうふうで、最後までデータ取りに使われて、死後も標本になって大学に残ると思うとねえ…裏切ってやりたい、って感じでしょうか。もうこれ以上お金掛けてもらっても、僕の医師免許使えるようになりませんしねえ」
「そうなの?軽い仕事なら…」
「僕、外科なんです。しかも顕微鏡下での肝がん治療が専門でしたから、脳腫瘍じゃ運動機能障害の可能性があるんで、できませんねえ」
「…そうか」
「ま、卑怯だとも思います、今まで患者さんにもうちょっとがんばろうとか言ってたんですからね。なってみてわかるってものですね」
でもなあ、死ぬ確実性が違うからなあ、とつぶやく。