昨日、こんなblogを書きました。
「久々に、ぐるぐるしてます 」ift.tt/2nWmd48
そもそも、私が石けん作りにハマったのって「テクスチャおたく」が高じて、だと思ってました(blogの、「作らなくなったきっかけ」らへん参照)。もちろんそれもある。
でも、約十年を経て衝動が再燃して、当時アホみたいに読みまくった書籍を見返してみたら、ちょっと違う角度の感想が湧いてきました。
そうそう、私、この人の文章に魅せられたんだった。
その当時、既に前田京子さんの他にも何人か石けん作りの書籍は出版されていて、今にして思えばこの本のレシピが特別気に入ったとか、他の本より飛びぬけて内容に説得力があったとかそういうことでもなく、なんなら他の方の書籍の方が写真や装丁はスタイリッシュでオシャレで見目好く、レシピもきっと良いもの揃いだったのだけど
前田京子さんレシピに添えられた文章は、それだけでもう、その世界を一緒に覗いてみたくなるような、ほとんどエッセイに近いようなものだったのですね。
今あらためてプロフィールを拝見すると、言語を学んだあとに翻訳、出版、編集に関する仕事をされてきた方だったとのこと。
しかし、文章力…文章力もたしかにそうなんだけれど、それだけじゃない。
国際基督教大学、東京大学を卒業された才媛に違いないのだけど、そんなプロフィールを見る必要もないくらい、その文章から滲み出る感性の豊かさ、知識の深さ、育ちの良さ(といったら語弊があるのだろうけど、それを感じさせる品性といいますか)。
たとえばですよ。『石けんのレシピ絵本』から抜粋すると
「春先のある朝、夫が育ったミネアポリスの家でのこと。地下の寝室の小さなガラスの天窓の向こうから、名残雪にまみれたちっちゃな灰茶色のうさぎが、くんくんと鼻をうごめかしてこちらをのぞいているのを見たときは、ほんとうにびっくりしました。」
「クレイを水で溶くと、夏の夕立があがったあとのにおいがします。ぬれた土や石から立ちのぼる胸のすくような香り。暑さと渇きでぐったりしていた木々や草花がいっせいに息を吹きかえすときの香りです。」
「すっかり葉を落とした銀杏並木の丸裸の枝と幹が、きーんと音がするほど澄んだ空に向かって屹立するのを見上げる季節になると、スカーフに頬を埋め、「寄せ鍋にゆず風呂!」と繰り返しながら家路を急ぐことが増えます。」
こんな文章で、レシピが始まるのです。
わたし、「馥郁とした」とか「屹立する」とかそういう言葉は、この方で覚えたと思う。
(難しい言葉を覚えたことそのものじゃなく、この言葉をどこで知ったかを、自分でちゃんと覚えている、ということが、自分の中の重要な蓄積なんです。)
耳年増になった今じゃ「『の』の連続が気になる」だの「一文が長すぎないか」だのと無粋なことが気になったりもするのだけど、それすらもきっと表現で。ある時は冗長に、句読点を入れるのか入れないのか、あえてひらがなであるとか、全部が心の襞のあらわれという感じがして、今もそらで言える大好きな表現がたくさんなのです。
…実は、感じていることは当時と全く同じなのですが、言語化の精度が変わったのね自分。
テクスチャをまさにありありと伝えてくれるこの本が、私をその世界に招いてくれたんだなと、あらためて思いました。
翻って、今はどうですか。
趣味の万年筆の集まりでは、
信じられないくらい感性豊かな人、とびきり頭の良い人、その両方を兼ね備えている人、
描く人文書く人詠む人唄う人。
何人も思い浮かぶ。(そういうの好きな人が多いんだねやっぱり)
もちろん、取り囲んで読む人見る人観る人聞く人聴く人も。それぞれに違うベクトルを持った個性どうしが共存して、フィードバックがまた作品になり、
感性の等価交換がやまない毎日。
十年前の私よ案ずるな、今もそういう場所にいるぞという喜びと、なにやら、人の根っこは場所を替えても変わらないのだなという、自分自身のどうしようもない気質に対するおかしみとで、ひとり、くすっとなったりするのです。
もちろん、音楽のフィールドにもまた少し位相のずれた、でもとても近い感じの、心地よい共有がある。
まったく、この世は感性の坩堝だなっ。