ベストタイミングでコトは進んでる。
わたしの今生での目的は、
わたし、この世、あの世を理解しきり、
使いこなしきることです。
そのために必要だとおもえることをやってきていました。
ひとつの学びを極めるコトはできませんでした。
そのことで自分を責めたりもしていました。
しかし、
責める必要などなかったことに気づきました。
わたしは占星術や数秘、ドリームスペル、神秘学、宗教学、物理学、精神心理学…あれこれ手をつけましたが何ひとつ極めていません。
わたしが極めるのは〝わたし、この世、あの世を知りつくり使いこなしきること〟だけ極めればいいからなんです。
これも、
すっごく当たり前のことなのに、
なんであんなに執拗に自分を責めていたんだろ…。
神聖暦の260日のサイクルではkin207(4/1)とkin208(4/2)の間で魔術飛行が行われました。
南の黄色い城から中央の緑の城への魔術飛行。
無地着地することで、タイムイズマネーから、タイムイズアートへのと切り替わります。
これはたどり着いてみて実感しました。
ここで〝忘れられていたわたし〟がこのわたし(1から12でできた輪を携えた13のわたし)の到着を待っていました。
〝忘れられていたわたし〟とはヒトガミのわたしのことでした。
そして、
このヒトガミのわたしとは14のわたしのことでした。
そーだろーなーとはおもってましたが、やっぱりそうでした(笑)
中央の緑の城(第五の城)は、わたしの本体であり母艦であり〝忘れていたわたし〟でした。
この中央の緑の城ってのは、
中央に位置する軸のようなもので、
各階層ごとにあるんじゃないでしょうかねぇ?
母艦や本体ってのも意識の縦軸のことなのでは?
そんなふうなことを、
この母艦の中でぼんやり考えています。
この母艦の中で、
1から13のわたしもいろんな動きをしています。
1ハウスのわたしの天秤がヒトガミをみて興奮しています。
そのうち、自分の天秤の皿にヒトガミを載せてしまいました。
更に、そのヒトガミと釣り合わせるために反対側の皿に色んなものを載っけてみています。
2ハウスの蠍のわたしの能力の全てを載っけてみたり、3ハウスの木星とか5ハウス火星とか載っけてみたり。
こんな嬉々とした天秤をみたのははじめてかも。
わたしの1ハウス(自己の部屋)を司ってる天秤座のわたしが活性化したことで、1から12でできている輪そのものも活性化しだしました。
1から12でできている輪そのものが活性化しだしたのを喜んで眺めてる13のわたし。
母艦の中ではそんなことが起こっていました。
母艦に到着した日は一日中寝てました。
顕在意識を大量の潜在意識でジャブジャブ洗われていたような、そんなイメージで意識を保っているのがしんどく目を覚ましてもまたすぐ無意識のは海へと沈んでいく…そんな1日でした。
昨日は普通に過ごせましたが、
行動が変わりました。
いままではできなかった行動を、することができるようになれました。
やりたくても、怖くて不安でできなかったことが結構簡単にできるようになってました。
そして今日、
〝すでに越えてしまっているわたし〟がいることに気がつきました。
何を越えたのか?
母艦に戻りヒトガミのわたしを1ハウスのわたしの天秤に載せたことで、
〝ヒトガミに釣り合うわたし〟がこの世に現されだしています。
ヒトガミを天秤に載せる前は、
わたしの母が天秤に載っていました。
わたしはわたしの母の世界観に沿うように生活しようとしていたのです。
母の世界観を越えたくても、
天秤にわたしの母が乗ってる以上、
わたしの天秤はそれと釣りわせることに専念します。
なぜわたしの母が載っていたのか。
わたしの母はわたしにとって絶対的な憧れの対象でした。
〝母に憧れているわたし〟というわたしの天秤は、皿から母を降ろすことはありませんでした。
そんな天秤が、
母を降ろしてヒトガミを載っけたのです。
これはすごい変化。
母の在り方より、ヒトガミというわたしの在り方に惹かれた天秤のわたし。
わたしのお金や経済についての概念には、母の思想が強く蔓延っていました。
その概念を壊したり変えたりするのではなく…
その概念の領域を越えてしまった。
感覚的にはそんなイメージです。
守ろうとするのと、保とうとすることをやめることで、守られるし保たれる。
動的均衡。
ヒトガミのわたしはそう捉えています。
わたしの霊性は奇数として飛び出し続けていかなくてはならない。
霊性が偶数であろうとしなくていい。
偶数は奇数の後をついてくる。
奇数の後を、調和と秩序で包みながら追いかけてくる。
調和や秩序は守られ保たれるもの。
調和や秩序を守ろうとしたり保とうとすればそれは不活性化する。
そんなことが強く伝わってきた母艦生活3日目の今日でした。