そもそも、

わたしの〝行動動機〟の95%は〝興味〟です。

【知りたい欲、暴きたい欲】ですね。



なので、

義務とか義理とか体制とかは動機になりえません。



いまでこそ随分解放されましたが、

こんなわたしでも〝義務・義理・体制〟という概念を用いて行動していました。


それが全然うまくできなくて、

それをダメ人間なわたしと捉えて自責して、苦しくて悲しくてつらくて。



ある時、

こんなにつらいってのはむしろなんか捉え違いしてんじゃないだろか?

ここまで苦しまなきゃならんのってなんかおかしくないか?


〝苦しんでる自分という在り方〟そのものを疑いだしたわたし。



そこから10年ほどたったいま、

随分とラクになれました。



思考グセ、捉え方、

それが原因なんであって、

〝わたし〟そのものが悪いわけじゃない。


そういう視点、捉え方ができるようになれたことで、


幼い頃から問い続けてきた〝わたしは一体何者なんだろか?〟の解に繋がる道が開けたようにおもえます。



そもそもわたしは〝友達〟という概念がずーっとピンときませんでした。


しっくりこないとゆーか、腑に落ちないとゆーか。



友達だよねっ!的なことを言われるたび、

念押し?確認?されるたび、


なんかドロドロとした粘りのあるものを感じてしまい〝気色わるっ!〟とおもってしまう。



でも、

それを口にだすと怒られるか先方の被害者意識を刺激してしまいもっと厄介ならことになる、そんな風に捉えていたので黙ってました。


そして、

気色わるっ!だなんて捉えるわたしが悪いのだ、わたしは悪い子なのだ。

そーとも捉えてました。



【気色わるいものは気色わるいのだ】


それを認知認容許容したうえでわたしから何が湧きあがるのか、何が閃くのか、

それが1番重要なんだ。


いまではこーゆー捉え方ができるようになれたので自分を責めることが殆どなくなり、すごくラクになれました。


facebookを使いだしてまだ日が浅いのですが、友達申請という機能の意味がいまだにピンときていません。



わたしにはやっぱり〝友達〟という概念がよくわからないし、わからなくてもいいんだろな、ともいまはおもえています。



では、

わたしはどんな風に捉えてるんだろう?と自問したところ、


〝ファン〟


そーおもえました。


わたしの一方的な興味。



この人面白い!この人楽しい!

この人から漂うものが堪らない!


わたしが興味をもてているか否か、

それだけ。



わたしはわたしが興味をもった人・コト・モノの全てを知りたいとおもうし、知りきりたい・暴ききりたいとすらおもってしまう。


そして、

愛でたい、役立ちたい、喜ばせたい、という欲が湧きます。



そもそもわたしはそーゆー在り方だし、その在り方を発揮していていーんだろーなー、とおもえました。



基本的に一方通行。

愛できりたい。

愛できるために知りきりたい。



だから、

わたしのファン(わたしに興味をもってる人)という在り方なら認知できます。



わたしのことを知りきりたい、暴ききりたい、わたしを愛でたい、わたしの役に立ちたい。喜ばせたい。

そういうファン心理なら認知できます。



しかし、

やってあげた、とか

やってくれるよね、とか…


なんだろー 

相互依存?的なノリが基本的になくて。



やってあげたからやってもらえる。

やって貰ったからやってあげなきゃ。


こーゆーノリが嫌いで苦手で。

で、友達っていう概念にはそのノリが満ち満ちてるように感じてしまって。



あと、

彼氏彼女の関係とか、夫婦関係でもそーゆーノリがあるよーに感じてしまってて。


もちろん万人じゃなく、

共依存的なノリがない、自律した関係性を築いてるヒト達もおられますが。



で、


外側世界(現実界)においての共依存的なノリは〝自律心のない在り方〟なのだろうなといまはおもえていて、


わたしはそれを〝気色悪い〟と感じていたんだなぁと気づけたのは結構最近のことで。



自分の中の〝自律心〟がいくらか育ってきたことで、他者の在り方の中にみていた〝ソレ〟がなんであったかに気がつけた。



いまのわたしにとっての〝自律心が育っているヒト〟とは、


マイペース・マイリズムを保つことに重きを置けている在り方。



マイペース・マイリズム領域=絶対不可侵領域(ATフィールド@エヴァンゲリオン)



この領域は〝わたし独自のリズム〟が鳴り響いている場。



いまはマイペース・マイリズムの重要さを自覚できているからそうおもえだしたのですが、


この領域に〝他者のリズム〟を持ち込んでしまい、それがわたしの領域内でかき鳴っていた時代がありました。


わたしはいつも焦りと怒りを感じていました。


早く早く!

しっかりやって!

ちゃんと周りにあわせて!



焦りを感じて、周囲にうまくあわせられない自分に罪の意識を感じてしまう。



その罪悪感から〝なんとかしなきゃ!〟とおもいこみ、


さらなる他者のリズム(他者の在り方・自己啓発的な)を領域内に持ち込む。



わたしは〝わたしのリズム、わたしのペース〟がすっかりわからなくなってしまいました。



マヤの叡智の13の音のリズム。

ツォルキン暦は心の暦とも言われているそうで。


ツォルキンの13×20の260日のリズムにフォーカスしそれを凝視し続けてきたことで、


わたしは自分独自のリズム・ペースをおもいだすことができました。



いざ思いだしてしまうと、

なんであんなに他者のリズムにあわせようとしてたんだろわたしは…?


と、不思議にすらおもえていて。



目が醒める、てのはこーゆーことを言ってるのかもなあなんておもえています。



このマイペース・マイリズムを重要視できている在り方同士ならば、他者が自由奔放でいることを不快とはおもえなくなるのでしょうね。



わたしもどんどん他者の自由を認容許容できるようになれ、いまは〝自分自身の自由〟を認容許容しています。


わたしはもっともっと自由で在っていいのだ、と。



心(絶対不可侵領域)のリズムが保たれることで、

わたしは〝勇気〟をふるうことがラクになれました。



いま現在も、

いままでなら〝絶体絶命だー!〟と捉えてしまうリアルの中に在りますが、


それでも、

後ろを振り返るとそこにはちゃんと〝自分のリズム領域〟が在り、そこに戻れば安心でき勇気が湧き、智慧や叡智も湧く。


いまのわたしは、

そーゆーことを実感できているから、


一見〝絶体絶命〟にみえるリアルの中でもニヤニヤしていられるのでしょうねぇ。



絶対不可侵領域は〝母の懐〟のような安心感があります。


自我が芽生えた幼児は母親のリズムとシンクロ・同調することで〝挑戦する勇気〟をふるいだせたのかもしれませんね。



その2に続く