仕合わせに酔っていていい。
豊かさで満たしていていい
気分よくあっていい。
ときめきに浸っていていい。
歓びを堪能していていい。
こんな簡単なことを、
こんな当たり前の在り方を、
わたしは随分と長いこと…
自分自身に許せずにいました。
Q.なんでだろ?
A.許してはいけないと思いこんでたから。
いまのわたしは、
そういうことを自分に許せるようになれています。
これからもそういうことを、
わたしはもっともっと許してゆくのだとおもえています。
2015年、
わたしは〝尋常じゃない頻度で自分自身にダメ出ししているわたし〟という在り方に疑問を抱きました。
わたしはわたしに対して厳しすぎているのではないだろうか?と。
そして、
その在り方はもうやめてしまった方がいいのではないだろうか?ともおもえました。
やめることなんて可能なのか?
ダメ出ししないでいられるなんてこと可能なのか?
自己受容?
なにそれおいしいの?
わたしとは一体なんなのだろうか?
そんなことにフォーカスしていた年でした。
そして、年末にはその自己受容ができて歓喜してるわたしがいました。
自分自身を丸ごと受け容れることに尽力しきった年。
2016年、
わたしは自分自身を認めきり許しきる道に入りました。
自己認容、自己許容。
認めるってなに?
許すってなに?
そこからのスタート。
受け容れ、
それを認めて許容しきる。
許す、赦す、
それでいいのだ、と。
それもいいのだ、と。
それでもいいのだ、と。
それもわたしで、
それがわたしで、
その全てがわたしでいいのだと、
ダメ出しするわたしがいてもいいのだと、
他者を恨むわたしがいてもいいのだと、
許せないでいるわたしがいてもいいのだと、
ダメ出しするわたしがいることをゆるす。
恨むわたしがいることをゆるす。
許せないでいるわたしがいることをゆるす。
どんなわたしでも、
それを受け容れ認容し、許しきってみる。
そうしてみて気づけた。
わたしがわたしを許しきってみる前から、
すでにそれら全てを許しきってるわたしがいたことを。
わたしは、
わたしがわたしを許しきる前から、
すでにわたしは許されきっていたのだということ。
そのことに気づけた。
すでに赦されきっていた。
常に赦されきっていた。
いつでも赦されきっていた。
2016年の末には
もうそのことに気がついていた。
2017年、
目が覚めたら空気が変わっていた。
セカイが変わっていた、そんなイメージ。
神域のような、聖域のような、
そんな清涼感、清々しさでいっぱいのセカイ。
はて?
三が日を清々しく気持ちよく過ごし、
4日目からまたセカイのノリが変わった。
あ、繋がった。
そう想えた。
結合?
交尾?
S EX?
ドッキング?
まぐわい?
言葉にすると、言語にすると、
性的なイメージなものばかりになってしまうのだけれども…
実際のノリはちょっと違っていて…
ジョイント?
いや、フェードイン?
え?!ライディーンなの?
合体ロボ的な結合イメージ???
エバンゲリオンのシンクロ率があがってる状態?
5%と95%が、
婚姻関係を物理的に(とても違いノリで)結んだよーな?
とにかく、
言語にするのが難しいノリを体感しました(笑)
前情報としてツォルキンの背骨という概念を知っていたので慌てずに受け容れられましたが、
知らなかったら動揺して受取拒否してたかもしれないとおもえるくらいの衝撃ではありました。
しかし、
ちゃんとそれを受け容れるための準備はできてたんだなぁともおもえました。
この4日間、
注がれる叡智やリアルに対しての認識できる範囲が格段に広がりました。
今までこんなに受け取れていなかったのかと驚きました。
わたしはヒトガミを体感しています。
これがヒトガミ…
これが100%のわたし…
ちゃんと活性化できて発揮しだしたんですねぇ。
すごいなー。