長い間、
わたしはカゴの中のトリでした。
でも、
カゴの中のトリである自覚はなかった。
わたしとはこういうもんなのだと捉えながらも、そうでないわたしを知覚しているから苦しい。葛藤する。矛盾する。
わたしは、
ヒトという名のカゴの中いたトリ(自由自在に飛ぶもの)であり、
己をヒトそのものだと錯覚しているトリ(自由自在に飛ぶもの)でもあったのだ。
だから、
わたしはヒトで在ることをやめた。
ヒトで在ることをやめると、
ヒトという物体・物質がわたしそのものではないことを思い出す。
わたしは意識。
それも、
自由自在に飛ぶことのできる意識でもある。
意識は次元を自由自在に飛べる。
(おそらく、本質は逆なんでしょうけど。
イマココのわたしの意識次元に、高位次元の意識が注がれる…なのかと。)
カゴの中にいても注がれてるから、
本質を知覚してしまう。
でも、
カゴの中にいるから、ほんの少ししか知覚できないでいる。
だから気のせいだと無視し続ける。
無視できるのならそれは問題にならない。
無視できない、
気になって仕方がない。
だから問う。問い続けた。
わたしは誰だ?
疑う、疑い続けた。
これはわたしなのか?
わたしの本質はカゴの外。
後ろの正面がわたしの本質・大元。
カゴの中のわたしは、
わたしのほんの一部でしかない。
5%のわたしと95%のわたし。
どちらもあわせて100%のわたしがわたしの本質。
ヒトというカゴに捕らわれてるわたしは5%のわたし。
顕在意識。
所詮5%。
それで何もかもをこなそうとするなんて、その方が無謀すぎる(笑)
しかも、
完璧主義であるほど5%のわたしで対応しようとするほどに物質的界ではネガティヴにはたらいてしまうという仕組み。
完璧主義が悪いんじゃなく、
それほどの大きな欲をもってここに現れているのなら、それは5%のわたしじゃ対応できないことにさっさと気づけYo!ってリアルが注がれるのかと。
わたしはそうでした(笑)
大きな欲を持ってる奴ほど、
己を隠そうとするんですよねぇ。
封印するんです。
こんなの現したら殺されるとおもうからw
だからわたしは
自己開示をはじめました。
己がな何を考え、何を想い、どんな欲をもっているのかを客観的に捉えるために。
客観的に受けとめるために。
己がものすごく大きな欲をもっていることに気づく。
強欲であることに気づく。
己が強欲であることを許容する。
そこから、
その欲を満たすにはどーしたらよいかと(わたし全体で)思考することができる。
気づくこと。
許容すること。
それではじめて
創造するためのスタート地点に立てる。
起点となれる。
ヒトというカゴから外れてしまえば当たり前のことなのに、その無謀さがカゴの中にいるとみえない。
そもそも、
そのカゴを創り出し、そこに納まったのはわたし。
誰のせいでもない、わたしがやったこと。
なぜやった?
分離意識を極めるため。
分離意識がどんな愛を現すのかを実感、体感するため。
わたしは愛を現しにきている。
そして、
いついかなる時も愛を現そうと尽力し、
いついかなる時も愛を現している。
その愛を、
光と捉えてるか闇と捉えてるかの違いだけ。
光の愛を現していても、
闇の愛と受け取られることはある。
そして、それは在っていいこと。
闇の愛を現していても、
光の愛と受け取られることもある。
そして、それは在っていいこと。
誰かの〝受け取り方〟を制限しようとしなくていい。
わたしは光の愛を差し出したんだから光の愛として受け取ってよっ!
ってのは制限。縛り。
受け取る側の問題であって、
差し出す側の問題ではない。
誰がどう受け取ろうと、
その人達の自由で在っていい。
誰かや何かを巻き込まない。
わたしはどうありたいのか?
わたしはどうしたいのか?
これだけで完結してしまう在り方。
これが、
ヒトというカゴをでると思い出す
全ての起点は〝わたし〟であること。
誰かや何かは、
注がれたギフトでしかない。
それがネガティヴなリアルでもポジティブなリアルでもギフトでしかない。
誰かや何かとの癒着があるので拗れる。
リアルと癒着しているから拗れる。
とことん〝わたし〟に凝視。
わたしはリアルではないのだ。
わたしは物質ではないのだ。
リアルは
わたしの眼前で流れゆくものなのだ。
物質は、
潜象界(内側・内宇宙)の物質的現れでしかない。
物質を、肉体を、
〝わたし〟だと捉えてしまっているから歪む。疲弊する。
己の本体を取り返す。
本体は潜象界にある。
みえないわたしが真のわたし。
(わたしは/お前は)誰だ?