《何もかもが〝愛〟でしかなかった》
ソレに気がついた時…
すごいことに気づいてしまった(畜生!いままでなんだったんだっ!)という衝撃がありましたが…
〝やっぱりそうだったか〟という安堵感も内側から湧きあがりました。
ソレに気づいてから数日、
頭や眉間周りがズキズキと痛みました。
これが結構痛くて、
鎮痛剤のもうかともおもったのですが、
これはチャクラの調整?で起きてるものだというイメージが湧きましたので薬はのまずにいました。
暖めるとラクになるので、帽子&カイロなどで暖めて過ごしていました。
昨日にはズキズキは収まりましたが、
頭からおでこに、目の周りの凝りが解けたようでスッキリしています。
気づけば変わる。
これはもう何度も体験してきてます。
大きな気づきの後は、
身体が変化したり環境が変化します。
内側が変わったので、
その投影も変化するんですね。
ついつい失念しがちなんですが、
この身体も内側の投影ですからねぇ。
この身体はわたし本体ではありません。
わたし本体の内側の物質的な現れが、この身体でありリアルですからねぇ。
だから、
気づけば身体も注がれるリアルも変わるんですねぇ。
仕組みがわかると、
全てはきちんと連動してることに気がつきます。
そして、
その仕組みのシンプルさがとても気持ちいいです。
どんなにネガティヴにみえるリアルでも〝愛〟でしかない。
何もかも全ては〝愛〟でしかない。
コレに気づいてからすぐに、
ネガティヴリアルが注がれました。
タイミングばっちり(笑)
リアルは流れゆくもの。
変わりゆくもの。
わたしが、
このリアルをどうこうしようとしなくていいんです。
眼前で流れる川のようなもの。
わたしがその川を堰き止めようとしなくていいんです。
そういうことを自覚しながら、
そのネガティヴリアルを認めきり許容しきりました。
そのとき、
内側から湧きあがるおもいがありました。
こういうのはもう要らないや。
もうおしまい。
このリアルはずっとそれをわたしに知らせてきてたんだなぁと。
コレ要らないんだろ?
諦めるなよ。我慢するなよ。
要らないんだからちゃんと手放せ、と。
諦めなくていいんだ!
我慢しなくていいんだ!
すでにそれを理解できる下地(新世界観)が創られたので、このネガティヴリアルが注がれました。
新世界観構築中はこの手のリアルがちっとも注がれませんでしたから、もうほんとタイミングあわせて注いでますよねリアルは( ̄∀ ̄)
わたしがわたしを生ききること
これを諦めきれなくて、
去年の春〝普通で在ろうとすること〟をやめました。
そして先日、
〝ヒトで在ること〟すらやめちゃいました(笑)
とことん肚を坐らせないと、
わたしはすぐにブレてしまう。
だから、
わたしはとことん自分を追いこむ。
肚が坐らないと、
すぐあちこち動こうとしてしまう。
わたしがわたしを生ききること
わたしはこれを諦めきれなかったから、
これ以外の何もかもを諦めました。
手放しました。
そこまでしないと、
わたしはすぐにブレてしまうから。
わたしはか弱い。
わたしはチョロい。
わたしは大人にはなれない。
わたしはわたしの凹の全てを認め、
許容しきっている。
そして、
凹を埋めようと尽力することをやめた。
凹は凹のままに。
そのまま晒す。
それがわたしだから。
もう隠そうとしない。
わたしは、
肚が坐らないとすぐにブレてしまう。
わたしはか弱い。
わたしはチョロい。
わたしは大人にはなれない。
わたしの愛すべき凹。
わたしはこの凹を晒しにココにきてる。
わたしはわたしの凹を埋めない。
そんなことする必要がないことを知っているから。
己の凹は
己が埋めるためにあるものではないのだ
凹とは
〝埋められる場〟
〝埋めさせてあげる場〟
これは、
他者(他存在)という在り方のわたし・異なる在り方のわたしが、
イマココのわたしに還れる場。
凹は埋められる場で。
凹は還らせてあげる為にある。
気づいてしまえば至極当然だとおもえることなのだけど、これがちっともわかってなかった。
凹は凹として在ることに意味がある。
意味のないものなど備えてきていない。
凹を隠そうとすること、
凹を埋めようととすること、
こっちの方が本質から遠い行為だった。
凸も凹もまず認めきらないと。
認めきらないと許容しきらないと、これを使いこなせない。
己の凸凹を認知する。
こんな当たり前のことができてなかった。
なぜ?
恥ずかしいことだと捉えるから。
隠そうとする。
埋めようとする。
それって本当に恥ずかしいの?