わたしの内側の〝愛〟。
内宇宙は愛で満ち満ちている。
その愛を二元性のこの世で現すと、
〝調和の愛〟と〝分離の愛〟とに分かれることになり。
それは〝愛〟の表面と裏面。
もともとひとつのものを、表と裏にわけることができるのがこの二元性の世のすごいところであり、面白いところ。
調和の愛とは全体性。
キリスト意識なんて呼ばれてみたり。
分離の愛とは独善。
ルシファ意識なんて呼ばれてみたり。
どちらも愛。
キリスト意識もルシファ意識も、
もとはひとつのもの。
そして、
どちらも〝そもそものひとつの愛〟を現していて。
うん?
現そうとしていて…かなぁ。
多神教と一神教。
これも〝そもそものひとつの愛〟を現してる。
または、
現そうと尽力している。
多神教は全体性であり多様性。
多様性を許容し全体として調和することを伝えてきてる。
誰もがもつ凸凹を許容し、補い合おうとするスタイル。
一神教は完全性、完璧性。
ヒトなら誰でももつ凸凹を許容し、その凹をできるだけ現さないようにするにはどうするべきか?と模索してきた。
誰もがもつ凸凹。得手不得手。
素晴らしいところ、残念なところ。
素晴らしいところをフル発揮することで社会に貢献し、残念なところは現さないよう封じ込めるよう尽力するスタイル。
二元性のこの世では、
愛を現す形が2つ在る。
というか、
愛を現そうとしている2つの意識がある…かしら。
全体性意識の極みと、
分離意識の極み。
多神教と一神教。
無償の愛と完璧な愛。
全か一か。
全で現す。一で現す。
光で現す。闇で現す。
各々が尽力してきた。
そう、尽力してきてた。
どちらもその根底は、
大いなる一なる愛だから。
ポジティブな愛はわかりやすい。
認識しやすい。
でも、
ネガティヴな愛は認識しない。
たぶん、
ネガティヴな愛の認識の仕方を忘れてる。
封じてしまってるから。
おもいだせばいい。
わたしはネガティヴも愛でられることを。
争いにみえる現れにも、
その根底には必ず〝愛〟が在る。
どんなに凄惨な現れでも、
その根底には必ず〝愛〟が在る。
愛を現したい!
この世に〝あの愛〟を現したい。
この世で〝あの愛〟を体験体感したい。
そういう欲。
とてもシンプルで、
とてつもない規模の欲。
その欲を満たすためにわたしは現れた。
何回も何十代も何千年も。
どんなに残虐な現れでも、
その根底には必ず〝愛〟が在る。
現象にとらわれすぎると、
情にとらわれすぎると、
常識にとらわれすぎると、
本質がみえなくなる。
本質はとてもシンプル。
本質をとらえるものが現れだしたのは、
統合のため。
一なるものが分散し、
その分離経験・体験で気づけたもの知り得たものを用いて、改めて一つになる。
そういうプロセス。
わたしがこなした
数多の人間体験を統合する。
どんなに凄惨な現れでも、
どんなに残虐な現れでも、
その根底には〝愛〟があったことをおもいだしたものたちから、
新しい第3の愛のスタイルを現す。
これまでの闇の体験は
このために在ったのだ。
このために必要だったのだ。
封じこめてた闇を開く。
闇の中で蠢く〝悪者認定された〟そいつらをよーく観る。
そいつら全員、
愛を握りしめてる。
いいか、
それも〝愛〟なのだ。
それも〝愛〟なのだ。
それも〝愛〟なのだ。
それを認められるものから解けていく。
愛は闇の中にも在るのだ。
愛は闇も現せるのだ。
闇も愛なのだ。
愛の〝完全性・完璧性〟を、
この世に現そうと試みたのだ。
この世にパライソを創るために。
この世から苦しみをなくすために。
誰もが一生懸命だった。
なんとかしてパライソを現そうと懸命に尽力してきた。
うん。
もういいよね。
そーゆーの。
本質無視したまま尽力しても疲弊するだけだから。
さあ、己の闇をみて。
その闇を受け容れ許容しきって。
許容しきったらちゃんと反転して。
己の闇を許容しきって反転しきったら、
この世の闇も歴史の闇も光へと反転する。
己を許しきったものから許せるようになる。
許せきったものから、
新しい第3の愛の在り方をフル発揮する。