「いま生きてるし、いま死ねてるし」
この境地を実感してしまってからは死ぬことに対しての恐怖が消えました。
肉体との離別=死 =地球上での生体活動の終わり。
生体活動が終わってもエネルギー体活動は続きますし、死んだら「無」という世界観がないので「無」に対しての恐怖が湧かない。
無=空、なので無しじゃなく「在る」から。
肉体が滅んでもわたしが「在る」ことを知ってしまうと肉体の死に対しての恐怖心が消える。
死が怖くない。
死を恐れない。
行動の選択肢が広がりますね。
殺されても問題ないし、
犯されても問題ないし、
襲われても問題ないし。
肉体の死は肉体の死。
死ねるのは肉体だけ。
マインドもソウルも死ねない。
逆にマインドとソウルは死にたくても死ねない。
でも、マインドもソウルも死にたいとは思わない。
「死は体験できるから。
いままでも何度でも体験してきてるし。
「死の体験」も歓びだから。
もちろん「誕生の体験」も歓び。
どちらも痛かったり悲しかったりしんどい思いをすることもあるけど、そういったネガティヴ体験だって、二元性領域だからこそ味わえる豊かさであり歓び。
二元性領域で豊かさでと歓びを体験をしたくてわたし達はチーム(身体、精神、魂)を組んでココにいる。
ポジティブだけが豊かさで歓びなのではなく、
ネガティヴだって歓び。
ネガティヴだって豊かさ。
悲しさ、つらさ、苦しさすらも堪能できてしまえる領域。
なんて豊かな領域なんだろう。
二元性領域ではない領域をしる存在は、二元性領域の豊かさに圧倒される。
そして身体の奥から湧く感情。
「なんて豊かなんだ!」
幼児のキラキラした目の奥にある想い。
「こ、これはなんなんですか?(キラキラ」
わたしはいろんな事を知ってるふりして生きてきてたんだなあと。
たった一面知っただけで全てを知った気でいた。
「この世はくだらない。」
「悪が蔓延る世界。」
「もうこれ以上向上なんかならない。」
「もう年老いて不自由になって苦しんで死ぬだけ。」
思い込みも甚だしい(笑)
そんなちっちゃい世界じゃなかった。
わたしは「この世」の何をそんなに知った気になってたんだろう?
何ひとつ、何ひとつだってしれてなかったのに。
誰かの価値観、世界観を取り込み、それで創った3Dメガネをかけてこの世をみていただけ。
ちっちゃい。矮小。
その3Dメガネをわたしは外した。
外すと決めたから。
わたし全体で観たこの世は「豊かさ」そのものだった。
幼児の頃にみたあの世界。
目に飛び込むもの達を認識する。
知識として「名前」がついていてそれを呼ぶことはできるけど、
「名前」はそれのごくごく一部でしかない。
名前をしったことでそれを知りえたわけではなく。
名前の奥の広大な部分も「情報」として飛び込んでくる。
幼児はここまで知覚している。
幼いわたしもここまで知覚していた。
「こ、これはなんですか?(キラキラ」
(この広大な存在はなんなんですかね?
すげーっすよね、これ?ヤバくないっすか?)
「それは葉っぱというのよ。」
「葉っぱ?
…なんかそれ聞いてもあまりピンときませんね。
わたしの口に入れて確認してみますねっ!
(わたしは自分の口内のサーチ能力に絶大な信頼を置いておりますので。キリッ)」
「ぎゃー!汚いからやめてー!!!」
「ぎゃー!それわたしのっ!返して!!!」
幼少期の悲劇も喜劇でしかなかったんですね… ぷはっw
街中で幼児の騒ぎ声に目を向けると、やはり上記のようなやり取りしてました。
大人は既存の3Dメガネ装着してるからちっとも通じない(笑)
親は「子供は危険から守らなきゃならない生き物」と思いこんでいるので恐怖由来の行動をしてしまう。
だから噛み合わない。
死を恐れているうちはそういう行動になってしまう。
死を恐れる教育を受けているのだから当然ですしね。
死が悪だったりしてるし。
いまは「教育」を疑う人達が増えてきてるし、既存の教育スタイルに拒絶反応をおこす子供も増えてきているし。
死を恐れない世界観を持つ人達が増えたら常識はひっくり返るんでしょうし。
常識が変わらなくても世界観がかわっちゃった人達から自由に動くんでしょうし。
光=闇
光=愛
闇=愛のバリエーション
大なる愛=豊かな愛
光も闇も愛なのですねぇ。
闇も愛であることに気づいてしまったら、
恐怖は消えるし、「制限」なんてのもまるで意味がなくなりますね。
制限は恐怖由来の概念ですし。
幼児は死ねている領域から「生きてるし死ねてるし」な領域にきたばかりです。
死ねてる感覚の方が強い状態というか、死ねてるのがデフォな感覚?(笑)
幼児が突然死ぬのは誰かが悪いわけじゃないと想えています。
幼児は生に対してのフォーカスが極薄なので容易にそこを通り抜ける。
なんかしんどい、ちょっと戻ろう、って程度で意識したくらいでも死ねてる領域にサクっと戻れてしまうというか…。
幼児が突然死んだら大人はとてもつらく悲しみますが、幼児はほとんど(まったく)気にしてない…ような。
「死ねている存在」と「生きてるし死ねてるし、な存在」の感覚の違い。
自分にも死ねている部分があることがわかると死はごくごく近く親近感が湧きました。
わたしはアングラ社会で働いてる時や身の危険を感じてる時に「わたし生きてる♪」って実感が湧きました。
死が近い環境で生を実感できる。
カタギ(?)の生活をしている時はその「生きてる♪」っていう実感がほとんど感じられず、つらくて気持ち悪かったのです。
死が遠くて感覚が生ぬるくなる。
真綿で首を絞められてるような圧迫感。
死にたくなる。
だからわたしはキチガイなんだと思っていました。
死が近くないと生きてる実感が湧かなくて死にたくなる。
いまは「生きてるし死ねてるし、な存在」であることを実感できたので、死にたくないとも生きたくないとも死にたいともおもいません。
生きててもいいし死んでしまってもいいのです。
死がくるまでは生きてていいのです。
死ぬ時期がくれば身体は死にますし、その時期はわたし(マインド)が決めることではありませんし。
(魂と身体では話はついてるようで)
わたしはいま、生きてるし死ねてますが、それは「流れ」の中で身体を携えていれているというだけのことであって、生とか死とかはどーでもよくなっています。
興味のほとんどは「歓び」「体験」に向いています。
問題はありますが、意識も興味も「問題」には向いてません。
わたしの中にはこういう階層もあるんだなあということを実感しているところです。
ほんとにわたしは広大なんですねぇ。