わたしはホッとしていたらいいのだ。
わたしが緊張してても仕方ないのだ。
緩んでる方がリラックスしてる方がいいのだ。
深刻じゃない方がいいのだ。
深刻を探しだしてフォーカスする癖をつけたのは悪魔側の作戦だったのだ。
わたしはもう悪魔と共には生きない。
わたしはわたしの本質とともに生きる。
わたしは愛由来の言動しかしない。
大いなるわたしが注ぐリアルを受け容れる。そのリアルには愛も富も叡智も美も存分に含まれてる。
わたしは受け容れている。
わたしは受け取れている。
わたしはもう悪魔と手を組まない。
悪魔に協力もしない。
悪魔の声も聞き入れない。
わたしは悪魔を殺さない。
殺す必要性を感じない。
もう悪魔に興味が向かないだけ。
自分の内側で輝く「本質の自分」を知ってしまったら、もう悪魔になんて興味もてなくなってしまう。
他者の囁きに興味が向かなくなる。
他者は他者。わたしはわたし。
他者が悪魔と仲良しでも問題ない。
悪魔も他者も悪くない。
需要と供給が噛み合ってる間柄なだけ。
彼らが仲良くしてても問題ない。
腹も立たない。嫉妬もしない。
わたしの中の悪魔成分が消えてしまったら投影できなくなり、わたしの興味対象から外れるだけ。
他者を救おうなんて考えない。
救おうと捉えてしまうのは傲慢だ。
不憫と捉えるのも傲慢だ。
それは「愛由来」の思考回路・行動じゃない。
誰でも自分自身で選択する自由がある。
誰にでも光輝く「本質の自分」を携えている。
己の内側にフォーカスすれば、自分が何者なのかにフォーカスすれば、自分が「愛」そのものであることに気づく。
外側にフォーカスすれば張り巡らされた巣の奥で悪魔が笑顔で立っている。
「あなたのためを思って♪」とあらゆる概念を授けてくれる。
内側でも外側でも選べる。
選択は己でできる。
悪魔が悪いんじゃない。
悪魔は笑顔で概念を教えてくれるだけ。
良かれと思って、と前置きしてから。
悪魔は敵じゃない。
悪魔は悪じゃない。
敵とし悪とするから蔓延るのだ。
蔓延らせているのは己の選択の結果。
敵などいない。
悪などいない。
敵がいてもいい。
悪があってもいい。
「縁を繋がなければ存在できなくなる」
悪魔が1番恐れているのはこの事実に気づかれること。
愛由来の思考回路だとすぐにそれに気づけてしまう。だから愛由来の思考回路の人達は楽しんでいる。
「フォーカスしなきゃいいだけのこと」と知ってしまっているから。
問題にしない。問題とも思わない。
皮肉なことに、悪魔が人間を脅かしすぎると人間は「愛」に気づいてしまうのだ。
この二極化がどんどん進めば最終的には外側フォーカスの人間というエサがなくなってしまって悪魔が絶えることになるのだろう。
どん底の体験を受け容れたものは愛の存在に気づく。愛に目覚める。
どん底の体験を受け容れず被害者になる人もいる。それも自由。
敵がいた方がラクならそれでもいいのだ。敵がいたまま死んでもいいのだ。
どんな体験も肉体があればこその貴重な体験。