これは外側(現代社会)にフォーカスして生活してる人間にとっては「直視したら目が潰れる恐ろしい存在」「存在を認めたら狂ってしまう、社会に抹殺されてしまう」といった方向で捉えてしまうようです。わたしがそうでした(笑)

「本質のわたし」という存在は宇宙規模の存在で「全体的なわたし」とはあの世もこの世も広域に知覚してる存在です。

自分の知覚したスケールの大きさを認めるのはとても勇気がいることです。
なぜならずっと「小さい存在なのだ」と教えられてきたから。

外側と内側ではベクトルが異なります。
外側で小さいと教えることは内側的には大きいことなんです。
外側でたいしたことないとされることは、内側的にはとても重要なことです。

あべこべなんですね。
「→」が「←」になるんです。
これはただの慣れの問題です。

地球上に現れたときの方向感覚が本質の方向感覚で、訓練や教育で身につけたものが社会的方向感覚ですね。

わたしは「本質のわたし」の存在を長いこと封印していました。
このわたしを解放したら社会から抹殺されると捉えていたからです。
本気で思ってました(笑)


今年、わたしは「本質のわたし」の存在を全面的に認め丸ごと受け容れました。
全身で堪能した「本質のわたし」は「愛と富と叡智」で満ち満ちている存在でその全てをザアザアと溢れ出していました。

本質のわたしにフォーカスし同期したわたしはその心地よさに触れ全身がホッとしました。
そして想い出しました。

何を怖がってたんだろう、わたしは。
わたしは本質のわたしを具現化する為にココにいるのに。
いままでなにやってたんだわたしは?
絶望感に襲われました。

絶望感が満ち満ちて溢れ出して流れきったのち、「全ては必要な体験だった。不要な体験などひとつもない」という肯定感が湧きだしました。

怖くて不安で封印してきたわたし、も必要な体験だったのです。そのことも実感できました。

その後何度か揺り戻し体験があり、今日しみじみ実感しました。
「本質のわたしに似合わない概念、相応しくない概念」をどんどん昇華しようとしてるわたしがいることに気づいたからです。

そして、それらに気づき昇華するためのリアルがどんどん注がれているということにも気づきました。

なんとゆーか…
もう「本当に委ねきっちゃっていいんだなあ」と実感。

今日は「約束、締め切り」という概念を昇華しました。
外側には当たり前の概念でも、内側的には不要なんですね。
内側からのベクトルだと確かに約束は不要なんです。

内側は愛や信頼が前提の世界なので約束、締め切り、制限、縛り、拘束…的な概念が不要になります。

確かに本質に内側にフォーカスした生活を送る「いまのわたし」には制限、制約の類は不要です。

外側フォーカスな時には「そんなこと許されない!」と捉えていたことが、内側からのベクトルでは不要なことになるんですねぇ。面白いです。すごく面白いです!


外側フォーカスの常識と内側フォーカスの常識は真逆なのでしょう。

なので、これからは常識が真逆の人達が増えてくるってことなんですね。

約束は守らない。約束など不要。
え、なに?約束って。的な?(笑)

約束したがる側、拘束したがる側の思考回路は「不安由来」です。
コントロールしたがる自我の世界観です。

とはいえ、それが悪いわけではありません。不安由来からの言動はまだまだ地球上からは昇華しないでしょう。
まだ「不安由来な在り方」が必要だからでなんでしょうね。
また、壊れゆく「不安由来な在り方」をたくさんみることになりそうですね。

その姿をたまたま目に入った報道番組でみることがあります。


これからの二極化は「不安由来」と「愛(本質)由来」の二派に分かれてしまうということなのでしょうね。

不安由来が悪いわけではありません。
選択肢を提示されたということです。

わたしは精神的、経済的「不安/恐怖」に怯える生活から離脱したいという想いが沸きあがった時に「わたしが安心できる環境とはどんな環境なの?わたしが心底ホッとできる環境とはどんな環境なの?」と問いました。

そして、その為のリアルが注ぎこまれだしました。わたしの場合は約10年でこの心境になりました。


いまの時代の流れでは「不安由来な在り方」から「愛(本質)由来な在り方」に転向することが容易に可能なんですよ。
ということをみせてくれる人達が増えるってことなのでしょう。

以前は清貧なイメージだった内面探求の道が、いまの時代はもっと心地よさ、快適さを発揮してる人達が増えますもんね。

わたしの本質もかなりの「強欲」なのです。それもこの時代の特徴なんでしょうかね?

おもしろいなーとニヤニヤしています。
あんなに怖かった「本質のわたし」に惚れ惚れしてるわたしがいて楽しいです。