昨夜から、自我がとても怖がりだしました。
どん詰まりに着地した自我は、わたし達と一緒にもっともっと幸せに生きる覚悟をきめたのですが…
覚悟を決めたのにまた怖がりだしました。

覚悟を決めたのに怖がる。
そのことが理解できなかったし、このどん詰まりであんなに怖がられたら鬱陶しく、億劫に思うわたしを奮起して凝視してみました。

自我はまだ問題を問題として捉えていて、問題が解決されてない状況を嫌がっていました。
この世界では問題などないのだよ、と説明しても聞き入れようとしません。
早く問題を解決したい!解決しなきゃダメ!の一点張り。

なぜ?なぜそんなに頑ななの?
なにをそんなに怖がってるの?

「先方を怒らせてしまったら罰せられる。怒らせたら罰せられる。」


………まぢですか? 
本気でそんなこと思ってるのですか?

え?神?相手は神なの?
えー?


相手は神ではありません。
一般の人達や一般の企業。


怒るのは自由です。
誰でも自由に怒ればいいんです。
罰したいと思うのも望むのも自由です。

ただ、罰したいなら法を通して対応しなくてはなりません。
日本は法治国家だからです。
法を通さずに罰したらそれはリンチ(暴行)
です。

アングラ生活時代にリンチは横行してました。力で制する、という理屈がまかり通る世界。

そこで身についてしまった概念なのかしら?と自問自答。

うーん。
もっともっと根深いようです。
法治国家在住じゃない時代の経験とか幼児期の経験とか。


躾とリンチを取り違えてる人は多いですからね。また、受け取る側が「躾とリンチの区別がつけられない段階」での暴行は躾とは捉えられませんしね。
だから躾と暴行を同じものと認識してる人が多いんでしょうね。


躾として叩かれ、殴られたことをわたしは躾とは認識してなかったのかもしれませんね。相当ショックを受けたのでしょう。

その経験が「怒らせたら罰せられる、殺される」という概念を創り、怒られたくない、殺されたくないがために「先読み/察する」や「先廻り行動」という癖を創ってしまったんですねぇ。

過去のわたしのその癖が、いまでも「作用しなきゃ」と足掻きます。

先廻りで行動しようとしたがります。
「早く!早く!」

自我のその行動理由が理解できてよかった。正直、自我の頑なさを鬱陶しく、面倒臭い、そんな風に思ってました。

絶対に理由はある。
そして確かに理由はあった。

その理由がこんなびっくり内容で腹立たしくも思ったけど、当時のわたしにはこの概念と癖を創り出さないとこの先を生きていけないほどに怖かったのでしょう。
そのことを理解できてよかった。