「仕上げの法は、お聞かせぎりで満足を与えるとは深い訳がある。凡夫の三業の働き工合に依って、与えるのなら計らうことも出来るが、聞くこと丈は計らうことはならぬ。鐘の音にせよ何の音にせよゴンと聞こえた耳が功になって鳴ったのではない、鳴ったままが聞こえたのぢや。鳴ってから聞くまで計らいを入れる余地はない。故に其のまま来いよと聞こえたままが信心と言うのである。若し計らわれるような勅命なら十九二十の勅命ぢや。第十八願は勅命のままが聞こえたのぢや。」
「信者めぐり」光觸寺物語より
「仕上げの法は、お聞かせぎりで満足を与えるとは深い訳がある。凡夫の三業の働き工合に依って、与えるのなら計らうことも出来るが、聞くこと丈は計らうことはならぬ。鐘の音にせよ何の音にせよゴンと聞こえた耳が功になって鳴ったのではない、鳴ったままが聞こえたのぢや。鳴ってから聞くまで計らいを入れる余地はない。故に其のまま来いよと聞こえたままが信心と言うのである。若し計らわれるような勅命なら十九二十の勅命ぢや。第十八願は勅命のままが聞こえたのぢや。」
「信者めぐり」光觸寺物語より