「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」

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易往而無人は、阿弥陀仏の本願力によるから浄土へ往生することは容易であるが、自力の心を捨てて真実信心を得る人は少ないから、浄土に往生する人は稀であるという意。 (行巻 P.176)

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以前から「易往而無人章」を拝読するとき、ここのところを、どうして「安心」と「信心」で言い分けてあるのか疑問に思っていました。

しょうしんさんのつぶやきではー

■信心=南無阿弥陀仏が衆生に満ちている状態。私の心や理解の問題ではなく身の問題。仏様のお仕事■安心(あんじん)=宗派が正当とする信心に関する教義理解(つまり教学)■味わい=信心の身が娑婆生活のなかで縁に触れて起こす心 ←私はこう区別します。ここらへんが曖昧だとわかりにくいのだ。

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なるほどー

信心は阿弥陀さんのお仕事。もともと私の中に無い心「信心」を手づかみにすると「異安心」になってしまうのですね。

ついついこちらの計らいをまじえてしまう。
計らいなくいただく、ということは阿弥陀さまのお心が届いたまんまということですね。

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木村無相さんの言葉

「驕慢(きようまん)」

〝そうやって
    聞き歩くのもよいが
    鯛にも骨がある
    身だけいただかれよ〟
    能信院師のおんさとし
 
 
〝鯛ならよいが
    鰯だったら
    どうしよう〟

    これを驕慢(きようまん)というのでしょう

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骨がある
骨をとって食べなければならない
と骨ばかり気にして
美味しく食べれない

煩悩具足のこの身が
阿弥陀さまのお仕事の場所だから
煩悩を無くさなければすくわれない
という計らいがいらない

むしろ煩悩がなければ
阿弥陀さまのはたらき場所もなくなってしまう。






先日、山陰教区のともしび法座のご縁で禮善寺さまの報恩講のお取り次ぎに出かけたとき

床の間の掛け軸の言葉が

「不断煩悩得涅槃」

でした。


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鰯の糠味噌炊き なら骨ごと食べられる
北九州の糠味噌で鰯を炊いたのは美味しいです。
骨まで食べれます。

などとー
木村無相さんの言葉をこねくりまわす。

でもこれも驕慢ですね。

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弥陀仏本願念仏
邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯

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禮善寺さまからお土産をいただきました。

志学のおだし
あご昆布
うに昆布

美味しくいただきました。

南無阿弥陀仏